随談第405回 続・『女の一生』

『女の一生』について、もうちょっと続けたい。前回に、全六幕の内、最初の五幕は同じ堤家の同じ座敷を動かさず、つまり一杯道具で通して、明治38年から大正、昭和初期、戦火が東京にまで及ぶようになった昭和二〇年冬までの日本の社会の変動を語らせ、最期の6幕目に至って、同じ座敷が戦災に会って瓦礫と化した有様になるという構成の巧さ、面白さについて書いたと思う。つまりそれが、明治末から戦争直後までの四十年という歳月を物語っているわけだ。

序幕で出合った同じ人間が、最期の幕でまた出会う。その間に流れた歳月を、思わざるを得ない。けいと栄二は、かつて心の底に秘めてしまった思いを、長い歳月の後に出会うことによって、悟ることになる。しかしその間に流れた歳月の中に存在したそれぞれの人生が、その思いを諦念のなかに溶かしてしまわざるを得ない。

と、こういうことを、今度の舞台を見ながら考えているうちに、あ、と気がついたのは、この芝居は『一本刀土俵入』の裏返しなのだ、ということだった。そう思ってみれば、『女の一生』の序幕のけいと栄二の出会いと、『一本刀』の序幕我孫子屋の茂兵衛とお蔦の出会いは、見事に相似形をなしている。山出しの少女と、見る影もない取的。気になって、ついやさしい言葉をかけてやるが、心の深くまでは自分でも思ってもみない、栄二とお蔦。男女の立場が逆になっているだけで、片方が土深い田舎の宿場、片方が都会の知的な人士の住まう山の手の住宅と、一見対照的だが、出会いの形は同じである。

『女の一生』の舞台が終始変わらないことは前に言ったが、『一本刀土俵入』も、どの幕も取手の宿の近辺から離れることなく、最期の幕で、十年の歳月を隔てて茂兵衛が漂白の旅から戻ってきて、そうして思わぬ形で、けいと栄二も、茂兵衛とお蔦も出会う。その間に、けいには伸太郎という、お蔦には辰三郎という亭主が出来ている。永い歳月と、その間に当然あったそれぞれの人生から、けいも茂兵衛も、栄二もお蔦も一見別人のように変っているが、変って居ればこそ、見る者は、却って人間の真実をそこに感じることになる。歳月と共に人は変る。山出しの少女はやりての女主人に変貌し、見る影もなくうっそりとした取的は、やくざ者とはいえ水際立ったとりなりの、苦みばしった壮者に変貌している。別人のようだからこそ、人は変るのだ、という思いが哀切極まりなく、見る者の胸を打つ。それほどに変っても、しかし一筋、心の底に変らない思いがある、ということが、だからこそひと際、どんなすれっからしの胸にも、突き刺さる。

森本薫が、どれだけ長谷川伸を、『一本刀土俵入』を、意識していたかは、私は全く知らない。たぶん、森本は自分でも全然気がついていなかったかもしれない。(その可能性の方がおそらく高いだろう。)私自身も、まさか、新劇史に残る屈指の名作と、股旅の大衆劇が、ドラマの一番基本的なところで、同じ構造になっているとは、いままで気がつかなかった。

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