随談第406回 中村芝翫について(修正版)

中村芝翫が逝った。追悼の文は既に他に書いたから、それよりもう少し冷静な立場から、芝翫という人のことを考えて見ようと思う。

新聞に書いた芝翫を悼む文章の中で、代表作とか当り役というのとは少し違った意味で、比較的若いころ、福助時代のものとして『寺子屋』の戸浪を挙げ、あとは、芝翫襲名の折の『廿四孝』の八重垣姫を挙げ、全盛期に踊った『娘道成寺』と『鏡獅子』を最も忘れ難い名品として挙げた。芝翫を振り返ってすぐに頭に浮かぶのはこの四つであり、また敢えて上演年譜を繰ってみることもしなかった。追悼文のようなものを書く時、記憶に強く残っているものを挙げるのが、最も適切なように思うからだ。もしつけ加えるとすれば、戸浪と並べて『廿四孝』の濡衣を(昭和41年4月、東横ホールで催した歌右衛門の莟会で通し上演したときのが素晴らしかった)、歌右衛門の尾上でのお初を挙げよう。

ところが、もちろんすべての他紙を見たわけではないが、たまたま目に触れた新聞、週刊誌を見ると、多くの人が比較的晩年になって演じた、たとえば『合邦』の玉手のような役を挙げている。もちろん、どの役をもってその役者の代表作と見るかは、ひとりひとりの意見があって然るべきであって、異を唱える気はまったくないが、ただそうした、他の方々の挙げている役々を見て、ちょっと意外の感を覚えたのも事実である。たしかに、記憶を蘇らせば、そのどれもがすぐれた舞台であったことは間違いないのだが、それにもかかわらず、それらの役々が私の念頭に浮かんでこなかったのもまた、事実だからだ。私の中の芝翫は、芝翫を襲名して約二〇年の間に集中しているらしい。

昭和58年という年、芝翫は二度、『京鹿子娘道成寺』を踊っている。一回は国立劇場の舞踊公演でだから一日限りの舞台である。もう一回は、秋に歌舞伎座の本興行の演目として。この二回の『娘道成寺』こそ、芝翫の芸術の最も全き形で具現した、あまりにも素晴らしいために、後にも先にも見ることのなかったまさに名品だった。それは、技と心と体が最も高いレベルで一致したときにのみ具現できるものだったと思われる。「完璧」という言葉は、こういうときにこそ使うべき言葉に違いない。他の誰と比べてとかそういうことではなく、『娘道成寺』という踊りのあるべき姿、あるべき形として、芝翫が思い描き、求めた姿が、能うる限り完全に近い形で具現したのだと考えるのが、おそらく一番適切であろう。『鏡獅子』は、42年4月、襲名の折に踊ったのが、目から鱗を落としてくれるような清冽な獅子であった。三日月のようなシャクレ顔で、痩せていて、戸浪や濡衣がぴったりで『鏡獅子』のイメージと遠い人のように思っていた芝翫が、この踊りの神髄を教えてくれたのだった。後ジテの獅子になって出てきて、左右にとりついた胡蝶と戯れる辺りの格の高さは、その後誰の獅子を見ても、この時の芝翫を思い出してしまう。

新聞にも書いたが、芝翫という人は、芸の、あるいはその役の、あるべき姿というものが、頭の中にはっきりと出来ており、もしかすると芝翫の目にはそれが見えていたのかもしれない。それは疑うべからざるものであり、仮に手を伸ばすとすれば一寸伸びすぎても短くてもいけない、というような、きっちりと規矩の定まったものであったろう。定まっている以上、一旦それを信じれば、もう疑うという必要はない。芝居の場合には、相手がいることだから、まして女方のことであれば相手に合わせる必要も出てくるが、踊りの場合は、ただあるべきものをあるべきように、自分の手と指と足と、身体で空間を切り裂いて描き出すだけだ。迷う必要は何もない。

しかしそれは、心技体のすべてが理想的に一致しなければ、現実には達成することは困難なことでもある。二〇〇〇年九月、芝翫は歌舞伎座で一世一代と謳って『娘道成寺』を踊り、自らそれを封じた。加齢のために、自分の思い描くあるべき姿を達成することが不可能になったことを知ったからだと、私は理解している。それは、名匠芝翫としての良心であり誇りの発露であったろう。しかし、歌舞伎俳優芝翫は、なおそれからも生き続け、舞台に立ち続けなければならない。それは、芸を以て生きて行く者にとっての、人生の皮肉ともいえる。ことに、芝翫のようなタイプの芸の持主にとっては。

もちろんそれからも、芝翫はすぐれた芸を随所に見せてくれた。新しく歌舞伎を見るようになった人たちにとっては、それが名優芝翫そのものであったろう。それはそれでよい。昨年一月、歌舞伎座さよなら公演の大顔合せの『車引』で初役で演じた桜丸が、編笠を取って顔を見せた一瞬の錦絵美など、八十年に近い役者人生を物語って余りあるものだった。しかし、と私は思う。あれを以て、芝翫の代表作とか、当り役だと人が言うのをもし聞いたら、故人は苦笑するのではないだろうか。

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