随談第410回 『怒れる十二人の男たち』への「?」マーク(修正版)

俳優座劇場でまた新たに『十二人の怒れる男たち』が始まって、入りも随分とよさそうだ。歌舞伎の観客に比べると皆々教養なり知性なりのレベルが高そうな人たちで、席はほぼ満席に近い。(たまたますぐ前の席が空いていたが、たまたま都合が悪くて来られなかったのだろう。お蔭でこちらは助かった。それにつけても、この間の平成中村座では、昼夜二回とも、すぐ目の前の席に坐った人が(別人であるにも拘わらず!)おそろしく座高が高い人で実に参った。たとえば『浜松屋』の強請場だと、上手よりにいる橋之助の日本駄右衛門と、下手寄りにいる七之助の弁天小僧の間に、前の人の頭がすっぽりと入りこんで、駄右衛門と弁天・南郷を分断するのだから、たまったものではなかった。)

ところで『十二人の怒れる男たち』だが、たしかにうまく出来ている芝居だし、出演者も才人・達者ぞろいで飽きが来ず、数日来の睡眠不足にもかかわらず一睡もしなかった。いや、する気にならなかった。引き込まれて見たし、インタレスチングでもあった。そのかぎりでは、充分に満足したといってよい。だが、いまに始まったことではないが、私はこの芝居にもうひとつ馴染めないものを感じている。今度もまた、それを拭い去るには至らなかった。何故か。

あまりにもこの芝居、うまく出来過ぎている、と思う。陪審員8号の人物が、残る11人を説得する根拠は、疑わしきは罰せずということであり、その間に浮かび上がってくるさまざまな差別や思い込みに由来する、民主主義に反する言論を論破し、説得する。11人はそれぞれ、ああいう人、いるいる、といった平均的アメリカ人であり、それを日本語訳のセリフを日本人である俳優たちが喋ると、ああいう人、いるいる、は平均的日本人に変貌する。これだけ、それぞれがそれぞれの典型であり代表であるように見える配役を考え、出演を実現し、これだけの成果を挙げるまでには、演出家は大変な努力を要したに違いない。が、そうはいっても、善良で保守的なアメリカ市民が自分でも気がつかない内に自分の中にこびりつかせてしまっている偏見、などというものは、その役を演じる日本人の俳優が適役で巧ければうまいほど、ア、この人、ほんとうはアメリカ人なのだ、と自分に言い聞かせながら見る必要が生じてくるのは避けられない。

が、ともあれ、その説得の過程はたしかにスリリングであり、舞台の壁に掛かっている時計が、上演時間とぴったり一致しながら進行し、終るというのだから、これ以上三一致の法則に適った芝居はありようがないわけだ。(ラシーヌも真っ青?)

だが、私だけなのかもしれないが、陪審員8号の説得が少しずつ効果を挙げていくに連れて、私はいつも、逆に少しずつ覚めてゆく自分に気がついてしまうのだ。(熱演し、好演している8号役の松橋登さんにまで、とんだとばっちりで申し訳ないが、冷ややかなものを感じ始めてしまう。つまりそれだけ、「役になり切っている」というせいなのかもしれない。)つまりはこの脚本は、アメリカ民主主義の理念と精神を観客という生徒に教えるための教科書であり、この芝居はそのために仕組まれた模擬演劇ではないか、という思いが募ってくるのである。そう思い始めると、いかにもそれらしく演じている俳優たちも演出家も、ときどき共感の笑い声を立てながら熱心に見入っている観客も、さあ、この芝居はいいお芝居なのだから一生懸命共鳴し合おうね、と言わず語らずの裡に示し合っている同士のように思えてくる。共犯関係、といっては失礼かもしれない。が、私一人?が、のけ者として疎外されて行くような気がしてくるのが避けられないのも事実なのだ。いつの間にか、最後の最後まで8号に反発する3号や11号に、声援を送りたくなっている自分に気がついたりする。(もちろん、彼らの論理に賛同するわけではあるませんよ。)

いつまでこんなことを並べていても切りがない。つまりは、余りにもよくこしらえられている芝居というものは、一旦、それに気づくと、急に醒めてしまうという弱点があるものだ、ということである。妙な例を引き合いに出すようだが、今月新橋演舞場で菊五郎がやっている『魚屋宗五郎』にも、似たようなことを感じた覚えがある。先々代松緑の宗五郎といえば、松緑の当り役中の当り役だと私は考えているが、何とその松緑と梅幸の演じる宗五郎夫婦を見ながら、ふっと、醒めていく自分に気がついたときの不思議な感覚はいまも忘れ難い。そういえばあの芝居も、禁酒を破った宗五郎が酒乱になっていく過程を、一糸乱れぬチームプレイで見せるのが眼目なわけだが、それが舞台の上であまりにも見事に達成されていくのを見ている内に、虚実のバランスが反転してしまうものと見える。

またしても8号役の松橋氏に失礼なことを言ってしまうのだが、私がふと、安らぎを取り戻したのは、終局近く、いわば決めのセリフを8号が言うところで、こともあろうに練達の松橋氏が、やや絶句気味になって、プロンプターの声が陰から聞こえてきた時だった。あの一瞬ばかりは、私は松橋氏に満腔の同情の念を覚えるのを禁じ得なかった。つまり、醒めた心にも共感の糸口が見つかったのである。

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