随談第412回 私的談志論(修正版)

ナニ、論などというほどのこともない。談志のことについて、心にうつり行くよしなしごとをそこはかとなく書いてみようというだけの話だが、それにしても、訃を報じるマスコミの仕方、それを通じて聞こえてくる世間の反応、へーえ、といささかたじろぎながら、チョイ驚きながら、眺めているところである。額面通りに受取るとするなら、談志サン、よかったね、結局のところ、貴方は勝ったんだよね、と密かに、はなむけの言葉として送ってあげようか。別に、個人としての付き合いがあったわけでないが、それなりに長い年月、高座を聞き、少しは著作も読み、巷間伝わってくる諸々の評判を私なりに腑分けをしながら、これを約めて言えば永いこと親しんできた「彼」に、そのぐらいのことはしてやろうと思うからだ。

勝った、というのは、談志がやろうとしてきたことを、世間がちゃんと理解していた、ということである。世の中も変わったものだ、とちょっと斜に構えてみたい気がしないでもないほどに。こんなにも(あっさりと)理解されちゃって、何だか談志らしくないなあ、とちょっぴり皮肉でも言いたい気も、しないでもない。談志の「毒」って、こんなに口当りがよくってもいいのだろうか? 

私などの年代の者からすると、志ん朝と、何かにつけて対比される存在であった、というのが、談志の位置づけとして、どうしても基本になってしまう。正宗と村正、という風に見られていた。当然のように、オーソドクシイは志ん朝にあり、当時まだそんな言葉は一般にはなかったが、今で言う「ヒール」として談志は見られていた。本当はいい奴なんだってよ、という声はある程度以上熱心な落語ファンには聞こえていたが、世間一般はそんなことまで知らない。落語はうまいかも知れないが生意気だから嫌だ、というのが、平均的な声だったと思う。参議院議員になって、物議をかもして役職を辞任すると、マア、ここらで少し落ち着いて落語の勉強をするといいんだ、などと利いた風の批評をするのも、世間の平均的意見だったが、この手のワカッタ風ノ言い方こそ、談志が最も嫌い、軽蔑するものであったろう。

その頃だったか、歌舞伎座の前で一般客と議論をしている談志を見かけたことがある。談志を異端児と見て、何故もっとまともに落語をしないのか、と問いかけられたのに答えているらしかった。(そんな、見ず知らずの人を相手に真面目に応対している姿が、印象的だったので、いまも覚えている。)その頃私は紀伊国屋寄席の常連だったが、ある時、トリを取る予定の小さんが休演になり談志が代って出たら、バタバタと帰る客が続出した。三越の落語会だったかでは、中入りの後に出る予定の談志が、構わずに高座に上がってしまい、客席が半分も戻ってこない中でさっさと一席終えてしまったりした。(こんなことは珍しくなかったらしいが、私が遭遇したのはこの時一度だけだ。)ここは「古典病患者」の集団、と高座の上から、談志がホール落語の客をからかったりした。

これもそのころ、私の友人で大学の語学教師をしていた男が、談志がしきりにインテリ風の屁理屈を並べて得意がっているが、落語家だから珍しがられているだけで、あんな理屈は大学の教員室では聞き飽きているから少しも面白くない、と言い放った。一理はある、と思いながらも、その男の方もちょっと格好つけてるな、と私は思ったが、今度はある女性が、その男のことを、Sさんて談志に似てるわね、と言い出した。なぜかと言うと、二人とも人を怖れているような眼をしている、というのだった。これにはちょっと意表を突かれたが、なるほど、とも思えたのでSにそれを伝えると、フーム、と考えていたが否定はしなかった。Sは志ん朝の心酔者だったが、内心では、談志のこともまんざら嫌いではなかったのかもしれない。それにしても、いわゆる女性の直感というやつで、これは、談志論としてなかなか急所を突いているのではあるまいか。つっぱったり、髯を生やしたりする奴に限って本当は気が弱いのだ、などと男の論理で一般論化してしまうと面白くなくなってしまうが。

やがて星移り時は流れて、志ん朝も円楽もいなくなり、談志も大名人として見送られる番となった。談志の栄光にして不幸は、演者であると同時に、どの批評家よりも頭の切れる批評家でもあったことだと、私は思っている。その意味では猿之助と共通する面があるが、猿之助にはヒールの要素がないのが、二人の分岐点だろう。しかし二人のしようとしたことは、実は意外に重なり合っている。『現代落語論』を書いた時、あれにまともに応えようとした批評家はいなかったのではなかったろうか。「・・・という部分」というような言葉づかいとか、「業の肯定」とかいうような、それまでの常識だったら生硬で鼻持ちならない(下手な落語家がやったら屁もひっかけられない)用語を連発して、それまでにない落語の「文体」を作ったのが、落語という一点に絞り込んで談志論をするなら、急所のように思う。

それにしても、たとえば『昭和落語家伝』といった本で、先輩の噺家たちを語るときの談志というのは、本当に素晴らしいよね。

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