随談第419回 正月芝居日記(その1)

元旦

明けましておめでとうございます。今年もまた巡って来た春を喜ぶ、その思いのひとしお深いこの春である。今年の賀状には「春めぐるそのよろこびを慈しむ」という一句を添えた。

1月3日(火)

正月恒例の芝居初詣は、例年通り三日の浅草公会堂から。新作(であるだろう、事実上)『南総里見八犬伝』と『敵討天下茶屋聚』と、どちらもストーリーを追いかける大衆劇仕立の芝居で、子供のころ、ラジオの連続ドラマを聞いた昔を思い出すようで、懐かしいような感じがして、好きだ。小説でも芝居でも、ストーリーは本質的なものではない、という考え方が主流になってから、お話を聞く楽しみ、という一番素朴で、基本的なものが失われてしまったのだ。さてこの先はどうなりますか、それはまた明日、という楽しさが、「物語」というものの一番根底にあるものである筈だ。

ところで、昼夜通してまず印象的なのは、亀治郎の座頭ぶりである。愛之助を除けば、周囲がぐっと世代交替したためでもあろうが、ひとりで仕切っているという印象が強い。『八犬伝』は従来の渥美清太郎脚本ではなく、石川耕士氏の新脚本で、先発のかったるさを取り除いたところが後発の強み。亀治郎は犬山道節よりも、蟇六の方が意外性のおもしろさがよく、『天下茶屋』の元右衛門に、本領が最も発揮される。つまり見立てよりも芸と技巧で見せるミドル級の役者なのだということが、この三役にくっきりと現れている。もしこの続編を作るなら、亀治郎で毛野の石浜城の仇討を見たい気もする。

毛野といえば、今度は最後の円塚山のだんまりに出るだけだが、歌六の長男の米吉が毛野になって、素朴ながらちょっと面白い味を見せる。まだ今のところ素質だけの存在だが、注目株である。昼の部の切に愛之助の伊左衛門で『廓文章』の夕霧をやる壱太郎の女方も、まだお生だが、不思議な初々しさを持っている。とはいえ、夕霧はまだ荷が重すぎる。

昼夜の入れ換えに一旦外に出て、帰りの客の波の中に漂っていると、五十年配とおぼしき女性の二人連れの高声が耳に入った。「はじめの「ナントカハッケンデン」というのが面白かったわね。後のは(『廓文章』のことであろう)だらだら間延びがして、いつ面白くなるのだろうと思っている内、終わりになっちゃったわ」と。彼女達を嗤うのはたやすいが、しかし私はむしろ、ごもっともだと思った。この辺りが、正直なところであろう。

まだ暮れ切らない6時半に終演。矢野誠一さん、長谷部浩さんと田原町まで歩いてスペイン料理の店で、まずは新年の祝杯を挙げる。芝居の感想は、必ずしも一致しないところが面白い。とくに長谷部さんとはしばしば裏表になるが、それでいいのだと思っている。

帰宅後、新聞に載せる劇評を書いてFAXしてから就寝。

1月4日(水)

三越劇場で新派。前回の『麦秋』に続き小津安二郎シリーズで『東京物語』。原作を踏まえつつ、現代の観客に合わせた抜き差しをしてあるのが、概ね当を得ているのが成功のひとつ。もうひとつには、新派も俳優たちこそ、昭和二十年代を体現するのに最もふさわしい芸と体質を持った人たちであるということだ。原作映画の昭和28年は1953年だから、2012年の今年から六十年の「昔」である。この時代の日本人の生活の様式(それは当然、生活感とも生活のモラルとも切り離せない)を体現できるのは、いまや新派の俳優建ちだけだと言っても過言ではあるまい。

それにしても、『麦秋』のときにも思ったことだが、安井昌二という人は、いまや名優と呼ぶにふさわしい。いや、そう呼ぶべきであろう。原作映画の笠智衆を踏まえつつ、安井自身の、安井ならではの味わいを見せている。

昨日の浅草歌舞伎評の校正を幕間にすませる。明日の夕刊に掲載の予定。

1月5日(木)

新橋演舞場に終日籠る。何といっても、意識の上でも演舞場の歌舞伎が毎月の仕事の中心になるのは避けがたい。菊五郎を芯にした、菊五郎劇団がベースになっての一座だからとはいうものの、『加賀鳶』と『め組の喧嘩』が昼夜の中心演目とは! とはいえ、何といっても菊五郎の安定感というのは、思えば大変なことであるに違いない。

『加賀鳶』の序幕「木戸前」で花道に鳶が勢揃いする。役者の良し悪しがこれほど如実に見えてしまう芝居もない。鳶の先頭の三津五郎はまさしく本寸法。五分長すぎても短すぎてもいけない。セリフの息、間、メリハリ、高低。次の菊之助も、役としての寸法といいセリフの息といい、それに次ぐ。錦之助という人は、こういう風に並んでいると、役者ぶりという一点にかけては大したものだ。いつだったか、吉右衛門が『逆櫓』を出した時、「マツエどの、マツエどの」と三人並んで逆櫓の稽古に迎えに来る漁師の役をしたとき、染五郎なども一緒に並んでいたが、こと役者ぶりという一点に関する限り、錦之助が一番だった。ところが、半纏を畳み鳶口を逆手に持って、いざ引き上げようということになっても、手早く畳めないでもたもたしていたりする。あれでは半纏ではなくレインコートを畳んでいるみたいだ。「木戸前」などというのは、オリンピックの入場式みたいなものだから、こういうところまでてきぱきやってくれないと、意味が半減する。

と、長くなったから、途中だが後はこのつぎとしよう。(つづく)

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