随談第421回 正月芝居日記(その3)

1月6日(金)

国立劇場と、夜にはル・テアトル銀座を見る日だが、国立は開演が正午なので若干ながらゆっくり出来るのがありがたい。遅めの朝食を終えたところへ、澤村田之助さんから電話があった。出版が年末ぎりぎりで間に合った『澤村田之助むかし語り-回想の昭和歌舞伎』が、新橋演舞場の売店に置いてもらったのがなかなか売行きがいいらしい。それやこれやで喜びの電話だったわけだが、本当に、どうか一冊でも多く売れて、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思う。

昨年末にこのブログにも書いたような経緯があって私もこの本の刊行に多少関わっているが、だからというようなさもしい根性から言うのではなく、近頃かなり出版される役者の本の中でも、内容の濃さとユニークさから言って、類書とはちょいとわけが違う。およそ今ほど、歌舞伎の本がいろいろ出ている時代はないのであって、ちょっとした本屋に行けば書棚ひとつ分ぐらいの歌舞伎関係の本のコーナーがある。正直、あきれるほどだと言っていい。だからこそ、なお、なのだ。

国立劇場の『三人吉三』がどうも弾まない。何故だろう、と考えて『演劇界』に書いた。黙阿弥全集の『奴凧』のすぐ前のページに『スペンサーの風船乗り』が載っているのでついでに読んで見たがなかなか面白い。染五郎がやるといいのに。初演のとき五代目菊五郎に福沢諭吉が英語を伝授したというから、こういうことには手馴れたる国立の文芸課に「福沢伝授手習鑑」の場を書き加えてもらって、幸四郎が福沢になればドンピシャリであろう。(この前も書いたが染五郎には『露営の夢』もぜひ!)

ル・テアトル銀座の玉三郎公演は、『妹背山』の「道行」と「御殿」というがまともにやればかなりの長丁場の筈。今は昔、玉三郎が旧新橋演舞場ではじめてお三輪をやったとき、「御殿」を「姫戻り」から出したのを思い出して(お蔭で、勘弥が求女と、何と鱶七の二役を替るという「椿事」を見ることが出来たのだった)、たぶん今度もそのデンだろう、などと思っていたら、とんでもない、「御殿」を丸ごと出す。もっとも、「御殿」は一時間五十分の内、約一時間は鱶七の持場で、お三輪の登場場面はじつは全体の半分もない。鱶七の入込みから全部きちんとやった方が、玉三郎としては、「道行」の後、充分体を休められるという寸法なわけだ。その代りに、冒頭に「口上」を出してお客をそらさない配慮を行き届かせる。金屏風を背に紫帽子をつけた正装でまるまる10分、「ル・テアトル銀座」というのを言い憎そうにしていたのを除けば、公演に当っての意義やら思いのほどなどを、立板に水のごとく述べる。口上というよりスピーチか演説に近い。わずか一、二分の口上にも絶句する某優などなら、死の苦しみかも知れない。

新聞にも書いたが、鱶七の松緑、橘姫の右近、求女の笑三郎、入鹿の猿弥など、玉三郎ひとり天下ではどうかと思わせた若手起用がことごとく当って、見る前の危惧を拭い去ってくれたのには、素直に脱帽していい。起用に応えた実力、それを見越して配役した玉三郎の読みの的確さはお見事というべきで、とりわけ松緑が鱶七をこれだけやろうとは、正直、これぞ嬉しい誤算というものだ。松緑は染五郎、海老蔵と三人で開けた12月の日生公演でも、結果的には『茨木』が、やや焼け残りの感も無きにしも非ずとはいえ一番の成績だったり、上昇気運は見せていたのだった。これで、本当に「化け」てくれるなら、われわれはひとつの「奇蹟」に立ち会うことになるわけだ。右近の赤姫の端正さも、細身で顎の細さといい、芝翫の若き日もかくもやの感。じつはこの公演、新聞評は「ステージ採点」という寸評で扱う予定だったのだが、終演後すぐさま、朝刊の「文化往来」の欄を提供してもらえることになったのだった。

1月7日(土)表をトラックが走ったり、上空をヘリコプターが飛んだりすると、その物音が聞こえるのが平成中村座ならではで、九代目團十郎が『矢の根』のツラネを述べる声が三丁も先まで聞こえたとかいうが、近代建築になる昔の劇場というのはそういうものだったのだろう。(なに、そんな大昔でなくとも、昭和30~40年代のファンに懐かしい東横ホールも、渋谷駅に地下鉄が発着すると、地下鉄の音がゴロゴロ鈍く鳴って、振動が座席に伝わってきたものだったが。)昼の部開演中、表からドンドン太鼓を鳴らす音が聞こえる。明日が初場所の初日だから触れ太鼓でも回って来たのかとも思ったが、それにしては太鼓の音が違う。ハテ、と思っていたら、昼夜の入れ換え時に表に出てみてわかった。中村座と斜め向いの待乳山の聖天様が正月七日の大根祭りで出店が出ていたりの賑わいに、チンドン屋が一役買っていたのだった。この辺りから上流にかけて、現在スポーツ施設が並んでいる辺りが今戸界隈で、竹屋の渡しもこの辺りという。七代目の宗十郎も三津五郎も大正頃は今戸に住んでいて、宗十郎には「今戸」と声が掛かったというが、つまりこの辺りが、街と郊外の入会いであったのだろう。たぶん、大震災までは。かの「鬼平犯科帖」などが似会いの景色で中一也の挿絵の世界でもある。中村座も、本来ならいい所に建ったわけだが、遠い遠いと愚痴る声ばかりが聞こえるのが当世というものだろう。

今月はゲストの出演もなく、勘太郎も来月の襲名に備えて出演せず、七之助が『お染の七役』で奮闘する以外は、至極おとなしいプログラムだ。『対面』を出すなど、これまでの中村座を思うと、ヘーエという感じだが、それにしても勘三郎が十郎を初役とは知らなかった。橋之助の直侍というのは、当世の評判はたぶんあまり沸騰しないだろうが、私は嫌いでない。肩の線に、昔の時代劇俳優が持っていたような色気が漂っている。阪妻などという人はそれで人気者になったのだから、橋之助は少し生れるのが遅かったのかも知れない。去年、シアターコクーンでやった『三五大切』の源五兵衛の時にも、同じことを感じたものだった。

3日から7日まで、連続五日間で六劇場、その間新聞劇評が三本、ステージ採点が一本、コラム(文化往来)が一本、『演劇界』の締切には少し間があるが、大小五劇場分の批評と記事を書いた。仕事とはいえ、これだけ集中したのも珍しい。(もっとも去年の正月は、四日の朝に電話で富十郎の訃報をベッドで聞き、そのまま劇場に行きロビーで追悼文を書いたのだっけ。)中村座の終演後、今度は矢野さんとふたりで居酒屋のカウンターではんなりと飲んで正月を締め括った。

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