随談第427回 今月のアラカルト

今月は国立劇場が一番だった。『熊谷陣屋』の前に『陣門・組討』をつけるのは慣例化しているが、あれをつけたからと言って、『陣屋』の全貌が見えてくるというわけではない。『陣屋』は『陣門・組討』の謎解きであり、それ故に、とくに「物語」の件など、播磨屋型の緻密な演出が出来上がっている。おそらく、はじめからいまのようなやり方だったのではなく、幾度となく演じ重ねる内に完成していったのだろう。余は何故わが子小次郎を敦盛の身代りにしたのか、ということを、藤の方と相模に向かって暗黙裡に語り聞かせるという趣きが強い。「物語」を途中幾度か中断して、二人への気配りも充分に諄々と語り聞かせる。それを吉右衛門ほどにやってくれればなるほどと納得するが、実はちょっと煩わしい感もないではない。

今度のは、『一谷嫩軍記』の全体の中に『陣屋』を置く、という指向がはっきり見えている。だから『陣屋』が新鮮に見える。ちょっと目から鱗の趣きがある。團十郎の熊谷が、『陣屋』だけのときにはやや粗削りで、悪くはないがいまひとつの感もあったのが、実に雄大剛毅で、「物語」が実に立派に見える。『嫩軍記』の熊谷の人物像としては、やはりこの方が本来であろう。ここまでくれば、いっそ芝翫型でやったらとも思うが、団十郎のあの顔、あの柄なら、今のままでも充分目的は達している。それというのも、「物語」がいいからだ。「敵と目指すは安徳天皇、それに従う平家の一門」と本文通りに言うのも、「堀川御所」で三種の神器のことを踏まえてのことだろう。国立劇場が、久しぶりに開場間もない頃の通し上演主義に戻ったような感がある。

もっとも、今度の脚本はあくまでも『陣屋』を主体に構成しているから、「堀川御所」など、必要最小限に絞った以上、無理もないとはいえ、義経と時忠が八百長をやっているような感もなくはない。まあ、それはやむなしとしても、『流しの枝』は、単に『陣屋』の前段というだけに留まらず、もう少しこの段としての扱いを重くしてもらいたかった。秀調という人は好感の持てる役者で私は贔屓なのだが、「林住家の段」なる一幕の人物としては重みがない。『陣屋』への前段として、筋を分からせるという限りでの用は足りている、というだけに留まったのは残念だ。一座には、せっかく東蔵という人が藤の方で出ている。ここは東蔵にさせてみたかった。それにつけても、昭和五十年の前回上演の折の市川福之助の林が鮮やかに思い出される。実を言うと、孝夫の忠度よりも、海老蔵の六弥太よりも、記憶に強く残っている。

魁春が、筋書の出演者の弁で、やっと相模をやらせていただけるようになりました、と語っているが、果して、満を持した如き相模である。何故かこの人を強く推す声があまり聞こえないが、この前の政岡にせよ、いまや歌舞伎界全体からみても、立女形と言って差支えあるまいと思うのだが。

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他にも好舞台、好演技がなかったわけではないが、平成中村座の評は今度出る『演劇界』にも書いたし、他も、新聞に書いたことに強いてつけ加えることもあるまい。『小さん金五郎』などという芝居は、梅玉と時蔵がああして努力してやっているのを、上方の匂いがどうのと言っても仕様がないだろう。私は決して、つまらないとは思わなかった。ただ、秀太郎が出てくると、まるで空気が違うのは如何ともしがたい。あんな役はもう、秀太郎以外誰にさせたって、不可能に違いない。一生懸命英語劇をやっているところへ、ひとりネイティヴスピーカーが登場して、それもロンドンの下町のコックニイみたいなやつをべらべらやるようなものだろう。秀太郎はあのひと役だけでも無形文化財に値する。

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市川鯉紅が死んだそうだね、と聞いたのは、二月初め、新橋演舞場を見たときだった。その時でも既に、随分日が経っていて、実際に亡くなったのは年末だという。つまり半四郎や芦燕と同じころであったらしい。團十郎が知ったのでさえ、年が明けてしばらく経ってからだったらしい。事情はいろいろあるのに違いないが、鯉紅に限らず、しばらく舞台に姿を見ないなと思っていたら・・・というケースは、私が知ってからだけでも、決して少ないとはいえない。役者の世界なんてそういうものなんだよ、などと、訳知り顔に言う人もあるが、また事実そうでもあるのだろうが、どんな小さな役をやる役者であろうと、永年月見てきた者にとっては、忘れ難い記憶があるものだ。まして鯉紅など、一個の名物的存在だったのだ。大立者の訃報を聞くのとはまた別の、何ともいえない思いが残る。

と、言っているところへ、今度は澤村鐵之助の訃報を聞いた。私が彼の存在を知ったのは、勘弥門下で守若から佳秀といった頃で、その後澤村藤十郎門に入って藤車から鐵之助という、紀伊国屋にとっては大切な名前を継いだのだったが、元々は澤村訥子門下で、小芝居種を知っていたり、その貴重さはもっともっと重用されて然るべきだった。せめて『老後の政岡』を見せてもらっただけでも、瞑すべしということか。(それにしても、田之助門下だった小主水といい、田門といい、あの弥五郎といい、喜の字屋と紀伊国屋を門弟が往来する例が多いのはどうしてなのだろう?)

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淡島千景のことも書くつもりだったのだが、すでにかなりの長話になってしまった。別の機会にしよう。

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