随談第433回 「花曇り忠臣蔵」補遺

前々回まで三回に亘って書いた花形忠臣蔵について、もうちょっと補足しておきたい。亀治郎のやった上方流勘平に関わることである。

上方の型という言い方を時折見るが、別に上方の型という一定のものがあるわけではないだろう。初代・二代の鴈治郎、二代・三代の延若、十二代・十三代さらには十五代の仁左衛門、更には魁車とか、その他近代での代表的な上方の勘平役者たちが、それぞれに工夫した演じ方があったわけだろうが、その総称というのでもない。音羽屋型にほぼ統一された感のある東京の勘平に対するアンチテーゼのような感じで、いつのころからか、それもかなり近年になってから言われ出したというのが実態ではあるまいか。もうひとつ、團蔵型というのがあり、これもいわゆる「上方型」と関わっていると思しいが、具体的にどうなっているのかは私は知らない。音羽屋型に対するアンチテーゼという点で共通する。藤十郎のはおそらく、伝聞しているさまざまな上方流の勘平の中から自身の見識で抽出したものだろうと想像している。まあとにかく、その坂田藤十郎に教わった「型」で亀治郎はやったわけだ。今にして気が付く。敵は本能寺、亀治郎はいずれ、五役だか七役だかの早変わりをやるつもりに違いない。

この前延若の勘平のことを書いたが、昭和五十二年十一月の「東西忠臣蔵」の時以上に、昭和四十二年三月に歌舞伎座で由良之助と勘平を勤めた時の方が強く記憶に残っている。勘平は「裏門」から出したのだった。(嵐璃珏の伴内が木彫りの人形に魂が入って動き出したみたいで、一緒に見た友人が「エ? これ人間?」と言ったのもさもありなんという感じだった。ああいう伴内は、もう絶対に見ることはないだろう。)延若は、五段目で火縄を振りながら出てきて、途中で火が落ちて消えてしまうところとか、すべてに悲壮な感じが漂っていた。六段目で二人侍を迎えに出るところで、押し入れから着替えを出そうとするとおかるの矢絣の着物がすぐ下に見えるので、覚えずハッと抱きしめる、というのはこの前書いたとおりだが、藤十郎のだと、何枚か畳んで重ねてある中に矢絣が見えている、というのであったと思う。ここでおかるを思い出す哀切感という意味では狙いは同じだが、印象の強烈さと意味の明確さという二点において延若の方がはるかに徹底しているから、それを見た目には、藤十郎のは、あれでお客はみんな矢絣に気が付くかなあ、と思ったりしたものだ。それから、これも前回書いたように市川右近が「右近の会」で延若のやり方をよく調べて演じた時、型を書き留めて、当時出していた同人誌『劇評』に載せておいたことを、興味のある人のために言い添えておこう。1999年9月25日発行の第87号。(もっとも、これをすべて「延若型」というような言い方をするのは、ちょっと危ういと思う。ついでながら、この時の右近は矢絣を抱きしめることはしなかった。或いは延若も、52年の東西忠臣蔵の時はしなかったのかもしれないが、残念ながらそこらの記憶は定かでない。)

おかるの矢絣は、当然、「裏門」で着ていたもので、そのまま駆け落ちをしたのだから、勘平にとっても観客にとっても強く焼き付いているわけだが、だからといって「旅路の花聟」の道行でまで矢絣でなければいけないというのは、ちと付会の説のように思う。今度は福助だから、それこそ「成駒家型」で御所解きを着るわけだが、その限りでは差支えないとしても、少なくとも五・六段目に気が行っている亀治郎としてはたぶん居心地がよくなかったろうと、ちょっぴり同情しないでもない。それかあらぬか、この前書いた口の開閉ばかりでなく、鋭い目をぎろぎろさせたり心ここにないといった風で、「道行」の勘平さんとしては、不機嫌と言おうか、ひどく落ち着きの悪いのが気になった。六段目では、整合性からいって当然ながら、矢絣でなく御所解きの衣装が重ねてあることになる。(その内これが、澤瀉屋のおじさんのやった型だということになるかもしれない。)

と、以上のことをちょいと、書き足しておこう。

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