随談第442回 映像再会

昨年の暮れ押し詰まって、昭和27年封切りの新東宝映画『朝の波紋』に再会したときのことはその折書いたが、もう一本、同じ昭和27年夏に封切られた東宝映画『東京の恋人』に、今度ようやく再会を果たすことが出来た。去年にも機会はあったのだが、折悪しく地震と重なって断念したのだった。『朝の波紋』もやはりそうだったのは、大袈裟なようだが奇縁のようにも思われる。

どちらも、小学校六年生という、大人の世界への目が開ける年頃に見たという一点で、忘れがたい懐かしさとなって、私の中で特別の存在としての位置を占めていた。映画そのものの面白さももちろんあるが、それを見た当時の記憶の中の「時代」と、いま改めて再会し、約六〇年を距てて、記憶の正しさを確認したり、あるいは修正したりしながら見る昭和27年という「時代」の間に流れる面白さには、何とも言えない甘酸っぱい懐かしさがある。甘酸っぱい、と言う形容詞はよく初恋の比喩として使われる言葉だが、たしかにこれは、初恋の人に再会するのと似ているかもしれない。映像に切り取られた場面は、そのまま、それを見た六〇年前の私自身を包んでいた時代の記憶と生々しく重なり合い、その匂いを甦らせる。たしかにそれは、初恋と似ている。それは、子供の世界だけに完結していた自分から、自分を取り囲んでいる大人の世界を知り初めた時の鮮烈さと重なり合うからで、ひよこが卵の殻を破ってはじめた外界に接したのと同じかもしれない。新聞と言うものを読んでみようと思い立ったのも、新聞小説というものをはじめて自分から面白いと思って読んだのも、やはりこのころだった。

『朝の波紋』『東京の恋人』も、いわゆる名画列伝に記録されてくり返し語られるという作品ではないが、前者は高峰秀子に池部良、後者は原節子に三船敏郎という、当時すでに人気絶頂だったといっていいスター同士の共演で、五所平之助に千葉泰樹という第一線監督の作品だから、決して粗製乱造の作ではない。前にも書いたが、誰でも知っているような名画より、当時当たり前のように作られていた、こういう作品の方が今の私にはずっと面白い。前者では隅田川のボートレースとか、後者では勝鬨橋の開閉とか、それだけでも時代を語る場面が重要なモチーフとなっているが、改めてオオと声を上げたくなるのは、どちらにも、戦災に会うまでは山の手のお屋敷町とされていたと思われる旧市内に、掘立小屋のような仮普請の家を建てて、池部良や三船敏郎扮する好青年が住まっている場面が出てくることで、つまり戦後七年が経ち進駐軍が立ち去った時点での東京の光景には、まだこれだけの焼跡が厳然と存在していたという事実である。いかなる記録を読むよりも、その数秒間の映像にまさる雄弁はない。

思い出す。この年私は、当時の町名でいう西巣鴨、大塚と池袋の中間辺りに引っ越して「転校」というものを初体験したのだが、辺りは焼跡の跡が生々しく、築地の癌研究所の分院が爆撃に会って建物だけが残っていたが、その中の一隅に居を構えて通学してくる同級生の女の子がいた。本当にこんなだったよなあ、と画面を見ながらまざまざと甦ってくるものがある。この「癌研」が整備されて、再び本来の病院として再開したのは、それから二年後、いや三年後ぐらいだったろうか。つまりその頃から、もはや戦後ではなくなった、のだ。

それにしてもこの映画『東京の恋人』に写し取られている銀座の光景。しかしそれはまさしく、親に連れられて小学生だった私も見た記憶のなかにある銀座に間違いない。そう、こんなだったのだ。いま見ると、自動車の通りが何て少ないのだろう。しかし十朱久雄(幸代の父親である)と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店や、森繁久弥の経営するパチンコ玉製造で成金になった会社(パチンコはこの前年ごろから隆盛になりはじめたのだった)の何と素朴なこと。(森繁はもうこのころから「社長」だったのだ。そうして私は、多分この映画で、森繁を、それからそこに出入りする飲み屋のマダム役の藤間紫を、はじめて見たのだったが、六年生だった私は、もうすでにその時、ああこれが森繁久弥か、これが藤間紫か、と思いながら見ていたのだった。)三船敏郎は、お屋敷町の焼跡に掘立小屋に住みながら、バリッとした背広を着、蝶ネクタイをし、パナマのソフトをかぶって銀座を歩いている。かの『羅生門』がこの前年だから名声はすでに鳴り響いているが、まだイメージは固定していないから、こういう都会派風の紳士も役どころの内だった。私には、むしろこういう三船が一番好もしい。そういえば、売り出し間もない有馬稲子と、やはりこの手の役で共演する『ひまわり娘』もついこの間見る機会があったが(これは昭和28年だがやはり千葉泰樹監督である)、黒沢映画だけで三船を論じたりする人たちは、こういう三船を知っているのだろうか? 

『朝の波紋』の封切りがメーデー事件の当日、『東京の恋人』の封切りが7月15日、ヘルシンキ・オリンピックがその四日後に始まる。私にとっては、昭和27年は、どうもひとつのエポックであるらしい。

        ***

同じ日の神保町シアターで、昭和38年の松竹映画『残菊物語』も併せ見た。「三代目猿之助襲名記念」とある。当時二十四歳の猿之助の、なんという若さだろう。こんなにも若かったとは! 六十年ぶりに再会した『朝の波紋』や『東京の恋人』のすべての場面が(見覚えていようといまいとに関わらず)新鮮な驚きに溢れていたのと対照的に、その後の猿之助の変貌を見続け、さらに先月来、二代目猿翁となって口上や『山門』の久吉をつとめる姿を目の当たりにした今、逆に、五十年前の姿を見て一種の途惑いさえ覚えるのは、どういうことなのだろう? 単に、いつも見ているから変化に気が付かないというだけのことではない。記憶は、新たに降り積もる新たな記憶の下に埋もれてしまうのだ。

岡田茉莉子のお徳、嵐寛寿郎、つまりアラカンの五代目菊五郎、市川小太夫(つまり先代猿翁、先代中車の下の、三兄弟の末弟である)の四代目の大芝翫、その子の福助がなんと若き日の津川雅彦、これも、当人とも思われないこと猿之助に劣らずだ。)、黒川弥太郎の12代目勘彌などなど、周囲の配役もなかなかおもしろい。それにしてもアラカンの五代目ぶりはちょっとしたものだ。冒頭の劇中劇で『鞘当』の不破をやっている。名古屋役の猿之助を圧する役者ぶりである。

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