随談第448回 リチャ-ド三世・大滝秀治・昼夜勧進帳

>新国立劇場の『リチャード三世』を初日に見る。三年前の『ヘンリー六世』三部作一挙上演とセットという構想で、俳優もすべてそのままというプラン、当然、演出プランも同じで、そのこと自体はきわめてインタレスチングであり、効果的でもあったと思う。それに大体、これは私の好みでもあるのだが、シェイクスピアといえば四代悲劇、という固定観念に前から疑問を持っていて、歴史劇の方がずっと面白い。(『ハムレット』と『リア王』ならともかく、『マクベス』とか『オセロ』って、そんなにも名作なのかしらん?)『リチャード三世』なんて作者が円熟する以前に書いた若書きで、ピカレスクとしては面白いが、大詰めであんなにリチャードの夢枕に、彼に滅ぼされた「善玉」たちが現われてリチャードがうなされてやられてしまうなんて、勧善懲悪劇みたいじゃないか、といった「決めつけ」が、何となく通念として擦り込まれてきたような気がする。その意味からも、『ヘンリー六世』と『リチャード三世』のセット上演は、なかなか結構な企画であった。俳優たちも、この演出を容認する限り、よくやっているといっていい。

演出といえば、シェイクスピアも思えば随分変わったものだ。『リチャード三世』というとどうしたって、日生劇場が開場してまだ半年もたたない昭和39年の3月(つまり東京オリンピックの七か月前である)、勘三郎が(もちろん十七代目ですよ)リチャードをやったのを思い出す。ちょうどその一年前に文学座から大挙脱退した、福田恆存や芥川比呂志達が劇団「雲」というのを作って意気軒昂だった頃で、それと、出来立ての日生劇場を本拠のようにしていた劇団「四季」とが合同してナントカ伯だのカントカ公だのを勤めたのだった。三階席の一番後ろの一番安い席から見ると、「雲」や「四季」の若い俳優たち(と言ったって、高橋昌也だの小池朝雄だの日下武史だのが中心で、橋爪功などという人たちが端役をやっていた)の中に混じると、勘三郎のタイツ姿が妙にカワイラシク見えた。アンだのマーガレットだのという女たちを弁舌をもってたらし込む長台詞が、勘三郎一流の説得力でうまいことはうまいのだが、ときどき、たまった涎をフォーッと吸い込む(らしい)のがちょいとした奇観だった。もうその頃は、勘三郎に限らず、いかにも「赤毛物」でございといった大芝居は演技にも扮装にもなくなっていたが、しかし今から見れば、新劇版「時代物」らしい格を保っていたと思う。中には、あれはリチャード三世というよりリチャードの三公だ、などという陰口もあったが、それとて、「格」というものを思えばこそ出た毒舌であったろう。つまり勘三郎が、まさか道玄と同じにやったわけではないが、意外に世話っぽかったのだ。(勘三郎って、そういう人ですがね。)

それに比べて今は、などと言いだす気はまったくない。むしろ、いまの俳優たちだって(ということはそれを許して(認めて)いるのだから演出だって)、それなりに王なら王、伯爵なら伯爵らしい「格」ということを考えているらしいことは、ある意味では案外なほどだ。と、(大分道草が長くなってしまったが)そのこととも関連することだと思うのだが、ときどき、ピアノでシューマンの「トロイメライ」だの何だのといった昔なつかしいような曲が奏でられたり(そういえば『ヘンリー六世』のときには蓄音機でレコードをかけたっけ)、ロンドン市民が山高帽だのシルクハットに燕尾服だかを着ていたり、リッチモンド伯が金ボタンの付いた軍服を着ていたりするのは、『エリザベート』ではないが前世紀末から第一次大戦ごろの風俗のように見える。あれは、どういう意図なのだろう? エリザベス一世時代を「現代」として生きたシェイクスピアから見てのヘンリー六世やリチャード三世の時代は、現代の我々から見てのその頃とタイムスパンが同じということかな、と考えたのだが、正解か曲解か? 何だかちょいと、わかったようなわからないような、半端なようなあいまいなものが残る。いっそ現代にしてしまったらどうなのだ?

        ***

新橋演舞場の歌舞伎の昼の部第一の『国性爺合戦』が終わった幕間に、大滝秀治の訃報が入ったかして、新聞関係の人たちが大勢、以後の客席からいなくなってしまった。(ところが実際に亡くなったのは二日も前であったらしい。)

俳優大滝秀治には私も好感を持っているから、大名優のように報道されるのに意義を唱える気はまったくないが、そういうこととは別に思うのは、「名優」というもののイメージというか、考え方が、この何年かで随分変わってきたなということである。立川談志が、明治この方最高の名優は九代目團十郎でも六代目菊五郎でもなく森繁久弥だといったというが、その談志自身の死後のもてはやされ方も、良し悪しや賛否は別にして、正直、そうなのかあ、と思う。

ちょっとそれとも文脈が少し違うが、たとえば笠智衆というような人は、名優と呼ばれて少しも異存はないが、しかし一種の「珍優」でもあったのではないだろうか。これは決して批判でも、まして非難でもない。もっと昔の大河内伝次郎などは、大俳優であったことは疑いないが、セリフが何を言っているかわからず、声帯模写の恰好のネタにされるという珍優でもあったのだ。大滝秀治も、そういう種類の「名優」のような気がする。大滝を、宇野重吉は「壊れたハーモニカ」と批判したというが、その宇野重吉だって、本質的には、九代目團十郎や六代目菊五郎が名優であったというような意味での名優ではないだろう。滝澤修なら、武智鉄二が六代目の死んだとき、滝澤が見られるなら六代目がいなくなってもいいと言ったように、従来の名優像の中に納まる。しかしおそらく、もしいま彼らが健在だったとしたら、滝澤より宇野を良しとする人の方が多いのではあるまいか、というのが私の見立てである。

繰り返すが、いまここに挙げた人たちを否定するのでも批判するのでもない。どういう芸をよしとするのか、ということと関わる話であって、翻ればそれは、どういう演技、どういう役者、どういう演出を、現代という時代は求めているのか、ということと関わっている。で、さらに翻って、芸とはなんだろう、というところに話は戻ってくるわけだ。

        ***

話が長くなった。『勧進帳』の話はまたにしよう。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です