随談第449回 歌舞伎の噂あれこれ(増補版)

どうかと思った国立劇場の『塩原多助』を結構面白く見た。新聞にも書いたように、三津五郎以下、孝太郎だ東蔵だ秀調だ万次郎だ吉弥だ團蔵だ権十郎だ、橋之助はともかくとして、地味というなら地味ぞろいのメンバーだし、かつてなら知らぬ者なしだった塩原太助翁(上越国境にある法師温泉への行き帰りのバスから「塩原太助翁生家」と看板のかかった大きな農家を見かけたことがある)も、いまでは,多助? WHO?というほど知名度低下した当節(それでも、平仮名で打ち出して転換したら「塩原太助」とちゃんと出たから、いまどきのパソコンも捨てたものではない。当り前? いや、この手の「当り前」が、案外、当り前でないこともちょいちょいあるのだ)、わっとくるような派手派手な要素は、いっそすがすがしいまでにきれいさっぱり、ない。だがある意味では、むしろそれがよかったともいえる。元々、力はある面々、この麦飯のような芝居をケレン味なく見せるにふさわしい。

一座の中ではやや花形の部に属する錦之助と巳之助が敵役の原丹次・丹三郎父子になるという配役も、なかなか知恵者の策で、吉弥のお亀ともども、ほどのよい存在感があって悪くない。各幕ごとに見れば結構面白いのに、盛り上がっていかないのは、エピソードの羅列のような脚本の作りのせいである。もっとも、外題が『塩原多助一代記』だ、絵巻物風になるのは当然ともいえる。

さてそこでだが、国立劇場で公演ごとに出している「上演資料集」の上演年表を見ていて、私自身の不勉強をもさらけ出すことになるが、これまで『塩原太助』の芝居の解説その他の言説というと、圓朝の原作を五代目菊五郎が劇化して大評判となり・・・云々といったことばかりで、恥ずかしながら私もテンからそう思い込んでいた。たしかに『一代記』の説明としてなら、ちっとも間違いではないのだが、上方では、『塩原太助経済鑑』という外題で五代目以前から頻繁に上演されていて、初代・二代の鴈治郎、二代目延若その他その他、関西のこれと名の知られた面々がくり返し演じているのだ。(面白いのは、かの『残菊物語』の二代目菊之助が、大阪へ流れて行って松幸と名乗って苦労していた頃、娘のおさくという役を勤めたりしている。)たしかに、『経済鑑』の外題の別脚本もある、と書いてある解説もあるにはあるが、上演年表を見る限り、「もある」どころの話ではない。戦後の昭和24年には、なんと「もしほ」時代の17代目勘三郎が新橋演舞場で『経済鑑』を演じていて、共演者は初代吉右衛門、三代目時蔵、のちの六代目歌右衛門、白鸚といった堂々たる顔ぶれである。菊五郎崇拝のもしほが『経済鑑』の方を演じたというのは、勘三郎論としてはいろいろ面白い考察のネタになるが、この上演のことがあまり報道されることがないのは、やはりある種の「怠慢」と言わないわけには行かないだろう。小芝居での上演も想像を超える頻繁さである。

そこで、私自身の恥をさらけ出すことも覚悟でいうのだが、この狂言に限らず、この種の解説のたぐいが、あまりにも東京中心、それも菊吉など有力者の当り役中心であり過ぎたのではあるまいか、ということである。心ある向きの意見を聞きたい。

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染五郎の記者会見のニュースをようやく読み、且つ聞いた。既に衆知となった内容をここに書く必要はないだろうが、会見の模様を伝えるワイドショーの各局の司会者が、思ったよりも早く発表がありましたね、といった風のことを言っていたのが耳にとまった。つまり、当然だがこの人たちは裏話をいろいろ聞いて知っているから、放送では言わないが、じつは・・・といったことが多々あったことが、これで分かる。巷間、楽観論・悲観論、種々こもごも流れたが、幸四郎が語ったという「奇跡的」という表現と考え合わせると、ある線が浮かび上がってくる。

来年2月に日生劇場での歌舞伎公演で再起というのだが、これはじつは幸四郎の公演に参加するということであるそうだから、いわば瀬踏みであって、真実の復活は、4月以降の新しい歌舞伎座のこけら落とし公演ということになるのだろう。

勘三郎の病状についても、まことしやかな噂のいくつかを耳にしたが、それらが、決して、あやふやな風評をまき散らすような人の口から出たものでないだけに、信憑性の程を決めかねるのが、あまりいい気持のものではない。

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このところ、新橋演舞場の歌舞伎公演のメニューにちょっとした異変が現われている。9月の秀山祭、10月、11月の顔見世と3カ月続くのだから、これは、たまたま、ということではなく、一定の意図なり方針なりがあってのことに違いない。

要するに、メニューの品数が少なくなったのだ。昼夜各2本。11月はまだわからないが、9月も10月も、昼の部は2時半前後に終わり、夜の部の開演が4時に繰り上がり、終演は7時40分前後だった。これで料金は変わらないのは・・・という声も、当然といえば当然、しばしば耳にするが、いまここに書こうというのはそのことではない。

9月の『寺子屋』は「寺入り」から出し、『桔梗旗揚』は「饗応」から出した。10月の『御所五郎蔵』は終幕の「五郎蔵内」を出して、尺八を吹きながら腹を切るところまで見せた。11月の『双蝶々』も、いつもの「相撲場」と「引窓」ではなく、「井筒屋」「難波裏」から「引窓」という出し方らしい。

こう見てくると、普段カットされたり、出幕にならないのが慣例化している場面を出して、ストーリーを首尾一貫させようという試みであることが窺われる。「寺入り」は別に珍しいというほどのものではないが、「饗応」を出したことで、春永の光秀いじめが増幅されくどくなるかと思うと、そうではなく、むしろ光秀の謀反に至る心情が、いきなり「馬盥」から始まるよりもくっきりと見えるばかりか、「馬盥」の場そのものまで、芝居の綾がよくわかって、むしろ退屈させなかった。「五郎蔵内」に至っては、ここを出すと五郎蔵の性根が変わる、というより、いつもの「仲ノ町」と「奥座敷」「仕返し」だけで五郎蔵を無理から格好いい英雄風に見せる演出の隙間が露呈されて、五郎蔵という人物がいささかならず異風の主人公であることが見えてくる。つまり、よく言われることだが、本来小團次にはめて書いた風采の上がらない非・英雄の姿が現われることになる。黒手組の助六が、歌舞伎十八番の助六のように格好良くないのと同じように。むしろ、いつもの何となく空疎感の漂う五郎蔵より、こちらの方が、ウン、やっぱりこの男ってこうなんだよなあ、と得心できるところに、新鮮味がある。

そういえば、去年だったか、吉右衛門が『籠釣瓶』前の方を復活させて妖刀の祟りの因縁話として見せたことがあったが、いま思えば、あの辺りから始まった試みと見ることができよう。もちろん反論もあるだろうが、この傾向、すべてが成功するとは限らないが、試みとしては歓迎していいのではあるまいか。もっとも、料理の品数が減ったのに同じ料金とは? という声には、また別の対応も必要だろうが。

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