随談第450回 新国立劇場『るつぼ』

新国立の『るつぼ』を初日に見たが、なかなかよかった。もっとも、中入り前の前半は、かなりの数の登場人物がつぎつぎに現れて、わあわあとわめきたてるのと(魔女がきゃあきゃあわめくのはある程度仕方がないが、今回はかなり抑制されているとはいえ、当世流の絶叫好みはここにもその尾を引いている)、薄暗い照明のもと、聴覚と視覚と両面から過度の刺激を受けるのとで、かなり疲労困憊する。

もっとも、大勢の人物がつぎつぎと出てくるのは脚本がそうなっているからで、これは作者のアーサー・ミラーに文句をいうしかないが、(もっとも考えてみれば、バルザックなどもいきなりパーティの場面で多数の人物をつぎつぎに紹介するところから始まったりするから、これは文学演劇ともに、泰西文化の発想なのかもしれない・・・と書いて、『曽我の対面』なんてのもいきなり大勢出てくるよなあ、とフト思ったりもする。いや、つぎつぎといろんなのが出てきてドラマを設定してゆく、という意味でなら『四谷怪談』の序幕とおんなじか、と思ったりもする)、西洋人の片仮名の名前が頻発し、何人かを除いては出演者の顔を見ただけでは判別のつかないこちらは、人物設定を呑み込むだけで暇もかかれば、神経も脳ミソも疲れる。(あの市蔵がやっている役とか、あの亀蔵がやっている役、という風に、取り敢えず役者本位で押さえておく、という手が利かないわけだ。)

新国立のパンフレットはサイズもよく、ページ数もほどほどで持ち重りがしないのは好感がもてるのだが、毎回一定の編集パターンが定まっていて(そのこと自体は尤も至極、悪いことではないとはいえ)、この役名がどういう人物なのかが、開演前に一瞥しただけでは覚えきれるものではないことに、もうちょっと配慮してもらいたい。(始まると客席は真っ暗になってしまうから、歌舞伎みたいに、オヤ、と思ったらその場で確かめるというわけにいかないのは、実に不便である。)

というわけで、前半(だけでちょっきり100分かかった)が終わった時は疲労困憊、帰っちまおうか、という悪魔(いや、魔女か?)の囁きが一瞬、頭をかすめたほどだった。(劇場側が最近、座席に置くようになったクッションをうっかり尻に敷かずにいた、つまり背もたれにしていたので、尾骶骨が痛くなったのも疲労の一因だが、これは私自身の責任である。中入り後は、尻に敷いたら気持ちがよくなったから、後半の好印象にはそのことも関係しているかもしれない。)が、後半は引き入られて見た。アーサー・ミラーならではの知的な論理性が、折り目折り目を的確に浮かび上がらせていく。17世紀の魔女裁判と、1950年代の赤狩りとの、その様相と構造が鮮やかに重ね合わされていく。宮田慶子芸術監督が始めた「JAPAN MEETS」シリーズでも一番の出来かも知れない。

配役もまず妥当と思われるし、俳優たちもそれぞれに健闘しているように見えた。エリザベス・プロクター役の栗田桃子の抑制のきいたたたずまいが殊勲の第一。この役が駄目だったら、この戯曲は芝居として生命を得ることは出来ないだろう。ジョン・プロクター役の池内博之も敢闘賞を貰っていい健闘ぶりだが、技能賞は、ベテランだから当然とはいえ、ダンフォース副総督役の磯部勉だと思う。存在感、という近頃手垢がつきすぎた言葉で片づけてしまえばそれまでだが、こういう芝居の場合、論理性が明確にされればそれでよしということに、とかくなりがちだが、それでは、舞台で生身の役者が演じる芝居としては面白くない。磯部は、シェイクスピなどで身についた、その役らしさ、というものを表わす術(すべ)というか、雰囲気というか、要するに「お芝居にしてみせる」身体をもっている。つまりは、「時代物」を演じる術といっても同じことで、はっきり言って、彼以外の出演者たちは、戯曲をよく理解し、脚本に書かれた役を的確に演じるうえでは、皆、大したものだが、もしパンフレットで、あるいは大学の教室か何かで教わったかして、アーサー・ミラーのこの戯曲についての知識がなかったなら、舞台の上で展開されている「芝居」が、何時、何処のことなのか、その身体を通した「芸」からは判断がつかない。ひとり磯部勉の身体と演技からは、これが17世紀のマサチューセッツの副総督であることが実感される。アーサー・ミラーといえども、それなくしては、わざわざ劇場まで足を運んで、役者が演じる芝居を見る必要はない。

別の意味で、いま評判(であるらしい)の鈴木杏の演じるアビゲイル・ウィリアムズの存在感も、なるほど、評判になるだけのことはあると思った。後半の冒頭、森の場面でのエロスなど、儲け役を演じて実際に儲けて見せるというのは、じつはそうざらにあることではない。そういえばミラーがマリリン・モンローと結婚したのは、ちょうど赤狩り裁判で議会侮辱罪に問われた頃だった・・・というようなことを、ふと思い出させただけでも、大したものだというべきだろう。つまり、この役と、エリザベスと、対応する二つの役がよかったから、こんどの上演は成功だった、ということになる。(それにしても、6時半はじまりの、終演10時20分というのは、ちとキツイ。帰宅してひと風呂浴びて晩飯を食べたら翌日になっていた。どうして6時開演にしなかったのだろう。)

佐々木愛が、レベッカ・ナースという老女役で出てきたときは目を疑った。まるで母親の鈴木光枝そのままではないか。何だか、彼女のレベッカは日本の尼さんみたいに見えた。(これは必ずしも非難ではない。)彼女が売り出して間もない昭和39年、いまの朝日テレビの第10チャンネルが放送を開始した開局記念作品の一つとして、延若主演のドラマ『樅の木は残った』で、宇乃という、原田甲斐とふしぎな相愛を交わす少女の役を演じて、こういう女優がいるのかと感に堪えたことがある。延若の甲斐も素晴らしかった。数年後にNHKの大河ドラマでやった平幹二郎と吉永小百合のコンビなどメではなかったのだが、このドラマは当時低視聴率の代名詞みたいに言われたものだったから、見た人も少ないに違いない。歌舞伎座制作で、延若のほかにも、伊達安芸に勘弥、老中酒井雅楽守に坂東好太郎、酒井老中を牽制する老中久世大和守に八代目三津五郎なんぞが、こぞって出ていたものだったっけ。)

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