随談第452回 貼り混ぜ帖

前回書いた橋下VS週刊朝日のバトルが、立会い一瞬の蹴たぐりで勝負が決まったと思ったら、今度は党首討論で、マナジリを決した野田首相の立会い一気のぶちかましからの押し相撲で、薄笑いを浮かべながらゆとりをもってジャブの応酬ぐらいと心得ていたと思しい安倍自民総裁がたじたじとなって土俵を割るという一番があった。もっともこれも、カメラをすこしロングに引いてみれば、民主・自民の八百長相撲のようにも見えてくるわけだが、それはそれとして、野田VS安倍の勝負という一点にズームアップしてみるなら、ちょいと面白い一戦ではあった。四つに組んだ長い相撲しか取れないかと思われていた野田の一気の突進に、安倍は「後の先」が取れず、上ずった声で念押しをして土俵際でねばるふりをするのが精いっぱいという一方的な勝負に終わったわけだ。相手の揶揄挑発にじっと耐えていた主人公が、乾坤一擲、憤然として起つ、というのは「忠臣蔵四段目」にせよ「縮屋新助」にせよ、昔からよくあるスト-リーに違いないが、返す刀、というより、立会い一瞬の張り手に事寄せて、「トラスト・ミー」などと言った人があったために、とかなんとか、味方のはずの鳩山前首相にまで一発食らわせるあたり、じつは手はなかなかこんでいたのを見ると、用意周到に差す手を考えていたに違いない。わが敵は本能寺、腹に据えかねていた相手は味方陣営にもあったという、首相の心中を推し量ってみると、なかなか面白い。

それにしても、急転直下の解散となって、袱紗に包んだ奉書を捧げ持った係官が恭しく廊下を練って歩いたり、勿体のついた解散の儀式を久し振りで見たが、何時も不思議なのは、議長の解散宣言と同時に議員一同が万歳を叫ぶのは何故なのだろう。猿は木から落ちても猿だが、議員は解散すれば失業するわけだから、やけっぱちの万歳のようにも聞こえる。何時、いかなる理由で始まった慣習なのか、知りたいものだ。(今度で引退する森元首相が、議場から引き揚げてきて、どうして万歳というのかわからんなあ、と言っていた。つまり、ああいう人でも知らないわけだ。)

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いろいろな訃報が続く。それぞれへの思いは別として、いつも思うのは、俳優や芸人、スポーツ選手など、華やかな稼業(と思われている)有名人の訃と、それを伝えるマスコミや社会の受け止め方の関係である。私個人の思いとうまく反りが合ってくれたときは、まあ、いいのだが、必ずしもそうとはならない(ことの方が多いかもしれない)。結局それは、自分の胸の内に収めてしまうしか仕様がないのだが・・・

森光子が亡くなってマスコミが大きく取り上げて悼んでいる。もちろんそれはいいのだが、しばらく前の山田五十鈴のとき、もちろんそれなりに大きく取り上げられはしたものの、実は少し、さびしい気がした。その割には、という思いである。理由は明白なのだろう。新聞やテレビの現役のスタッフにとって、森光子ならその活躍の輝かしい部分のほぼ全域を自分の記憶の中でカバーできるが、山田五十鈴となると、調べてからはじめて知る対象なのだということに尽きるのだ。現役のまま、それも後になればなるほど実りを豊かにしていった森光子は、だから、最も幸福な死に方を自ら(この字は、みずから、とも、おのずから、とも読める)演出していったのだ、ともいえる。伝えるマスコミも、仕事を共にしたスタッフや俳優・タレントたちも、観客も、みな、すぐにピンとくる記憶を自分の中に持っている。

1920年生まれの森光子は、映画女優としては原節子と同年である。森光子が『放浪記』で世の脚光をはじめて(といっていいだろう)浴びた時、原節子はまもなく引退をしようとしていた。同年の生まれでありながら、活躍の時期がほぼ完全に食い違っている。どちらが良いか悪いかとは、もちろん次元の違う話である。『放浪記』は高峰秀子も映画にしている。成瀬巳喜男監督で、舞台と同じ菊田一夫の脚本に依っているから、内容は舞台と映画の手法の違い以外は、物語の展開その他、まったく同じといっていい。スタッフも役者もそろっていて、いい映画である。高峰自身も、一番好きな作品と言っていたとも聞く。だが『放浪記』の名声は、森光子の舞台に奪われてしまった。こういうことは、運のあるなしとしか、言いようがないだろう。

アラカンの時代劇映画の娘役から始まって、戦地慰問の歌手(つまり自分の持ち歌ではなく他人のヒット曲を歌うわけだ)から漫才などの寄席芸、それから舞台、さらにはテレビと、その時々の世につれて様々な芸を身に着けた。もしそれを「雑芸」と呼ぶなら、雑芸の上に花を咲かせたことになる。芸とは何だろう、ということを考えさせられる。

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染五郎の休演が続く中、今月は仁左衛門が2日目から休演し、(段四郎も途中休演となったらしい)、さらに勘三郎の病状についてぎょっとするような記事が週刊誌に踊っている。歌舞伎座のこけら落とし公演が間近に迫る中、歌舞伎をめぐる空模様は不穏な雲がつぎつぎと湧いてくる。

国立劇場は、当然だがもう代役とは謳わないで、染五郎に予定されていた筈の役を、名古屋山三は錦之助、白井権八は高麗蔵がはじめから本役として演じている。演舞場では、仁左衛門に変って「引窓」では与兵衛を梅玉、『熊谷陣屋』では熊谷を松緑が、こちらは代役として演じている。(明治座の段四郎の役は、大詰の詰寄りに出るだけの大将の役だから、特に代りの役は設けないですませたらしい。)劇評は新聞に書いたのを見て頂くことにして、国立劇場では、染五郎が出ないのでは・・・という声もあるようだが、ファンの失望はもっともだが、ではさればといって、錦之助なり高麗蔵を見ていて、染五郎に比べて拙いとも見劣りがするとも思わない。特に錦之助は、「浪宅」でお国との別れのところなど、仁の良さを発揮して予期以上の好成績といっていい。ああいうノホホンぶりは、現代にあって貴重なものというべきである。染五郎がやったとして、あれ以上に行っただろうか?

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最後にひとつお詫びを申上げなければならない。新聞の新橋演舞場の評で菊五郎の『四千両』の富蔵を初役と書いてしまった。思い込みから来る粗相以外の何ものでもない。新聞には載せる機会がないので、せめてこの場で訂正とお詫びを申上げます。

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