随談第453回 批評の文章

今年もいろいろな訃報を聞いたが、吉田秀和とか小沢昭一とか、ちょいとひとしなみでない思いで見ていた人の死が多かったような気がする。どちらも、盗んでみたくなるような芸の持ち主だった。吉田秀和は、昭和37、8年頃だったか、「芸術新潮」に連載していた『現代の演奏』というのが面白くて、事実、ときどき、盗んだ。などといったら、おこがましいと言われそうだから、真似をした、と言い換えようか。

当時全盛だった大鵬と柏戸を破って小兵の栃の海が二人の間に割って入って横綱になった。その三人の相撲振りに、誰それの演奏の風を例えたりする。いま久し振りに『現代の演奏』を書棚から引っ張り出して確かめてみたら、別の本だったらしくて見当たらない。その代わりに、フィッシャー=ディスカウを大鵬になぞらえているのを「発見」した。発見と言ったが、見るとちゃんとその箇所に傍線が引いてある! つまり忘れていたのだ。それにしても、何とあちこちに線を引いてあることだろう。あのころは、こんな風にして本を読んでいたのだった。(栃の海のついでだが、風貌といい身体つきといい、日馬富士が何とも栃の海によく似ている。横綱として短命に終わってしまったところまで似ないといいが、とそんなことまで心配になってしまうほどに。)

実を言うと私は、歌舞伎の批評家の文章は、もちろん(『近代歌舞伎批評家論』なるものを書いたぐらいだから)、いろいろ読み、勉強もしたが、本当に楽しんで読むのは、むしろ他ジャンルの批評・評論の方が多いかもしれない。吉田秀和ももちろんその中の最大のひとりに数えていいが、どうしてかといえば、内容もさることながら、批評をするという行為というか営為というか、それから、どういう文章で批評を書くか、ということに興味があるからだ。

というわけで、実は今日やっと、増田俊也氏の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読み終わった。読むのは電車の中だけ、と決めていたので、二段組み、約700頁を読破するのに約ひと月かかった。(あの大きな、嵩張る本を電車の中で読むだけでもひと苦労だった。)別にあの世紀の一戦のいきさつという「事件」自体に、それほどの興味があるわけではない。事実、あの事件のことを書いた本は世にゴマンとあるが、ほとんど読んでいない。にもかかわらずこの本を読む気になったのは、書店でひと目見た時の直観、と言うほかはない。要は、ああいう事件、ああいう世界、ああいう人物たちをどういう批評の文章で書くのか、というところに興味があったのだ。まさか、吉田秀和や戸板康二の文体で、木村政彦や力道山は書けないだろう。

いや、面白かった。柔道について、格闘技というものついて目からうろこが落ちるような思いを何度もした。それにしてもよく調べたものだ。その思いの深さだけでも大変なものだが、そのド迫力が文章となって躍動している。そうしてそれらを通して人間というものの滑稽さや哀しさが行間から溢れ出してくる。(多分この言い方は、著者は気に入らないだろうが。)おそらくこれは、スポーツ紙のスポーツライターの文体でなければ書けないものだろうし、その意味で、スポーツライターの文章が作り出した傑作というべきだろう。

          ***

瑕瑾というほどにもならない小さなことだし、ケチをつけるために書くのではないが、ただ相撲好きの人間から見ると、増田氏は相撲にはあまり関心がないらしく、二カ所ほど、オヤと思った箇所がある。

ひとつは、力道山の相撲界入りの事情を述べる件で、師匠になる玉ノ海(かつてNHKの相撲解説でよく知られたあの人だ)が、現役のまま二所ノ関を襲名し親方となったいきさつを述べる際「この数か月後、二所ノ関親方が急死し」云々とある、その先代の二所ノ関親方というのは、あの双葉山以前の大横綱である玉錦のことだろう。玉錦は、双葉と覇者交代しながらなお現役を続け、二枚鑑札で二所ノ関を名乗っていたのだが旅先で盲腸炎のため急死したのだった。力道山と直接関わりのないそんなことをごちゃごちゃ書く必要はないとはいえ、柔道の関係者を述べるときの詳しさに比べたら、何も触れていないのはちょっと物足りない感じがする。

もうひとつは、力道山が、番付上の不満から関脇のまま突如廃業してしまういきさつを述べる件で、「九月場所の番付発表がある前の地方巡業ではすでに「大関」として相撲を取っていたという証言もある」云々というところ。このあたりになるとわたしも子供なりの記憶があるが、その当時の地方巡業は、今日と違い部屋別、または一門ごとに行っていたから、巡業先では、その一行のなかでの番付順に「大関」「関脇」「小結」と言う風に。

いわばその時限りの番付で興行していたのではなかったろうか? 私が中学一年のとき、大塚駅の駅前に二所ノ関一門の巡業が来たのを見に行ったのを覚えているが、当時(正式には)たしか小結ぐらいだった若ノ花(のちの横綱若乃花である)と玉ノ海(解説の玉ノ海の次の、金色褌で有名になった後の関脇)が(一行の)大関と称していたのを覚えている。だから力道山の場合も、別に「僭称」していたわけではなく、当時の慣例から、巡業先では「大関」だったのではないだろうか?

余計なことかもしれないが、ちょっと口出しをしたまで。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です