随談第454回 勘三郎随想(連載第一回)(増補修正版)

いまだにピンとこない、というのが、訃報を聞いた時からずっと、今なお続いている感じである。深く斬られているのに、気がつかずにぼんやり突っ立っている間抜けな切られ役のようなものだ。おそらく、これからゆっくりとさまざまな感慨が波状のように襲ってくるのだろう。

これからこの欄を利用して、随談・随想という形で、断続的に連載という体裁で、勘三郎のことを書いて行こうと思う。どうも、それが一番ふさわしい仕方のような気がする。もしうまく書けそうなら、勘三郎という役者について、随想という形でさまざまに語ってみたい。実は私には、ぜひそうしなければという思いがある。

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実は「勘三郎論」のようなものを、既に四年前に書き上げてある。思い立ってご本人の了解を得たのが十八代目襲名が決まって、まだ勘九郎でいるうちにゆっくり話をしたいという先方からの誘いがあって、東京ではなかなか時間が取れないからと、松竹座に出演中のひと晩、法善寺横丁の小さな寿司屋で酌み交わしながらのことだったから、さらにその四年前ということになる。「十八代目勘三郎論というのを書きたいんだけれどね」と言うと、エッと言う感じで、「勘三郎論って、ぼくのこと?」と自分を指差しながら答えたのを覚えている。もっともこの時は、発想を得た、というか思いつきに毛の生えた程度のものだったが、改めて、もう少しきちんとした形で話がまとまったのが、その翌年の七月、もう襲名公演がはじまってこの時もやはり大阪での公演中のことだった。このときもやはり法善寺横町の店で、好江夫人も一緒だった。

それから多少の事情もあったにせよ、ともかくも一応の完成を見るまでにちょっきり三年もかかってしまったのは、理由はあきらかで、ひとえに、書きにくかった、という一事に尽きる。とにかく相手は、いまめまぐるしく動いている真っ最中である。またそういう、動体としての勘三郎をルポするような、いわゆる勘九郎本、勘三郎本は、さまざまな形、さまざまなライターの手でつぎつぎと出ていて、それらはそれらで、みな、その時々の勘三郎の「いま」を巧みに捉えている。もちろん、それらとは違うスタンスで考えているのだが、書けはしたものの、誰よりも自分が気に入らない。勘三郎も協力してくれて、ひと晩、先代のことや歌右衛門のおじさん、梅幸のおじさん、勘彌のおじさんたちの思い出、などなどなど、それは面白い話を聞かせてくれたりしたのだったが、総体的には、まあ、ともかくもまとめた、という程度のことに終わった。案の定、どこからも買い手は出なかった。

こちらとしては、約束を果たせないでしまったことになる。そのことが、いつも、ずっと、気にかかっていた。二人だけで飲みながらという形で勘三郎と最後に(なってしまったわけだが)会ったのは二年前の六月、コクーンで『佐倉宗五郎』をやっている時だったが、いずれまた仕切り直しをして、というようなことを言ったら、向こうもちょっと真顔になって、ウン、もう少し待って下さい、と言葉も少し改まって答えた。(そういう、折り目正しさは常に忘れない人だった。)言うまでもないが、病に倒れたのはその秋も暮れのことである。約束は不履行のままになってしまったことになる。

驚きとか悲しみとかいったこととは別に、訃報を聞いて、やがて思ったのは、そのことだった。勘三郎の方ではどう思っていたかしれないが、私としては、いわば借りを作ったままでいることが、胸にしこりとなって残っている。私は約束を果たさなければならない。映画のフェイド・インのように、そうした思いが、事態をまだ受け止めきれないままでいる私の中に、浮かび上がってきたのだった。

論じるより、語ろう。それも、随想という、自然体で語るにふさわしい言葉で。あれから、ようやく、一週間が経った。今日は自邸で密葬が行われた日である。顔を見ることが出来る最後の機会と知りつつ、出かけるのはやがて執り行われるであろう本葬の折と決めて、敢えて自宅にこもって、締め切りを控えた原稿の準備に充てて過した。その日に、この第一回をこのブログに載せよう。題は、「勘三郎随想」と、いま仮につけよう。

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その日は、午後から国立劇場で文楽を見る予定だったので、夜中の二時半ごろに床について、途中で居眠りをしたりしないよう、少し朝はゆっくりするつもりだった。今にして思えば、ちょうどその時刻に、息を引き取ったことになる。因縁というほどのことではないにせよ、ひとつの不思議を思わないわけには行かない。突然の電話のベルで夢を破られたのは、まだ外は暗い六時半である。目覚まし時計と間違ったりする寝ぼけた頭がいちどきに覚めたのは、「勘三郎さんが亡くなりました」という日経新聞文化部の川口一枝さんからの一報だった。川口さんは、毎月の劇評その他で、なにくれとなくカヴァーしてくれる、私にとってはいわばキャッチャーみたいな存在で、普段から全幅の信頼を置いている人である。とにかくこれから出社して対策を講じ、結果を知らせるからという話で電話は終わった。

まだ四時間しか眠っていない計算になるが、床に戻ったものの、まともには眠れない。といって、何か激しい感情に襲われるというのでもない。ピンとこない、というのが、在り様だった。信じられない、と言うのとも違う。つい前日、国立劇場の歌舞伎を見に行った幕間の食事の折、たまたま席を隣り合わせた関容子さんと、勘三郎の状態について互いにわずかに知るところを交換し合ったばかりで、つまり関さんのような、先代以来の交際のある人でもこれといった情報を持ち合わせていないらしい、と知ったのがむしろ最大の情報、といった按配だった。いつもなら起き出す時間になっても、せめてもという思いでごろごろしながらテレビをつけると、その関さんが電話出演という形でキャスターと話をしている。目の前の現実だけが進んで行って、実感がなかなか湧かないという状態が長く続いた。

川口さんから電話が入ったのは、結局、十一時半頃で、文楽は十四時始まりだから十二時半には家を出なければならない。いつもは「文化往来」という朝刊のコラムの欄のスペースに明日付で追悼文をという。字数が少ないこともあってちょっきり四十分で行数もぴたりと書けたのは、興奮と緊張とがうまく噛みあって、集中力を増進してくれた賜物である。去年の正月四日、中村富十郎逝去の時を思い出す。あの時も、ちょうど新橋演舞場の正月公演を見る日で、やはり早朝、寝床の中で電話で訃報を聞き、そのまま劇場へ行って、幕間にロビーで書き継いだのだった。異様な昂揚の中でのみ、できることである。昼夜の入れ替えの時間に、原稿を受け取りに来た川口さんに渡して、やがて夜の部が開幕すると、富十郎が翁をつとめる筈だった『三番叟』が始まって、遺児となったばかりの鷹之資が三番叟を踊っている。思えば前日のこの時刻、富十郎はまだ病院のベッドにいたのである。実に不思議な感覚だった。(以後、断続的に連載の予定です)

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