随談第455回 勘三郎随想(連載第2回)・修正版

暮の27日、正午から築地本願寺で執り行われた勘三郎の葬儀から帰って、この連載の第二回目を書いている。

いいお葬式だった、という言い方があるが、本当にそうだったと思う。葬式に参列するというのは、どこか気の重いもので、今日だって、実はそういう気分も幾分目かはなかったとはいえないが、いまは、一つの終わりを見届けたという感が深い。迫本松竹社長、坂田藤十郎俳優協会会長、坂東三津五郎、大竹しのぶ、野田秀樹、片岡仁左衛門らの弔辞もみなそれぞれの思いが籠っていてよかったが、とりわけ三津五郎のには、文字通り涙を禁じ得なかった。

一般参列者一万二千人という数は夜のニュースで知ったことだが、このことをどういう風に考えればいいのだろうか。マイクが拾った一般参列者の声が最も端的な意見であり、私もそれはその通りだと思うが、これからこの「勘三郎随想」を書き続けて行く中で、このことは常に念頭から離れることはないに違いない。

寒かったが、雲一つない晴天だった。それも勘三郎にふさわしいが、私の心象風景として、ひとつの小さなフィクションを加えて、次の一句を得た。

冬空にひとすじ奔る雲のあり

         *

まずは、個人的な思い出から話を始めよう。 

勘三郎との交友が始まったきっかけも、思えば、いかにも勘三郎流だった。言うなら、一種の喧嘩である。原則として、役者との付き合いは、何らかの理由があって自然に出来て行く以外、こちらから求めてゆくということはしないから、この場合も、先方からの求めから始まったという限りでは例外ではないのだが、それにしてもいささかユニークであったことは間違いない。

一九九八年の一、二月というのはいまの仁左衛門の襲名があった時だが、そのときから向こう一年間という企画で、当時『演劇界』の編集長だった秋山勝彦さんから、「21世紀の歌舞伎俳優たち」という連載の俳優論を書かないかという話があった。第一回が仁左衛門、以下、その当時の名前で幸四郎、梅玉、菊五郎、團十郎、猿之助、勘九郎、八十助、吉右衛門、鴈治郎、富十郎、玉三郎という顔ぶれで、この人選は秋山さんがした。襲名の月の仁左衛門に始まって、月々の公演で中心的な活躍をしている役者をひとりづつ取り上げて行こうというわけだった。「21世紀の云々」というのも秋山さんの命名で、新世紀を間近に望む時点に立って、最も旬の盛りにある人たちについて、現在過去未来を展望し、語ろうというのである。

三月号から連載開始で翌年の二月号まで、一年間の連載だから十二人。勘三郎は、当時はもちろんまだ勘九郎で、第七回に予定されていた。いうまでもないが当時八月の歌舞伎座は「納涼歌舞伎」で、その納涼歌舞伎での勘九郎と八十助を取り上げようというわけだから、連載の第七回と第八回ということになる。

ちょいとばかり、話の仕込みが長くなったが、さてその年八月の納涼歌舞伎に勘三郎は真山青果の『荒川の佐吉』を演じた。もちろんこれ以外にも、三部制の三部それぞれにいくつも役をやっているが、その『荒川の佐吉』について、私は新聞評に「宿願の『荒川の佐吉』を熱演するが意余ってやや臭みに傾くのが疑問」と書いた。途中で休憩なしの一挙上演だったせいもあって、客席はやや披露気味、などとも書いた。もしかすると他にも原因があったのかもしれないが、私とすれば、心当たりといえばそれぐらいしか思い当らない。あれがいけなかったかな、というわけだ。

それが新聞に載って、さあどのぐらいだったろうか、記憶ではほんの数日という感じで、秋山さんから電話があって、勘九郎があの連載、自分の分は除いてくれと言っているという。わたしもずいぶんねばったのですけどねえ、と秋山さんは、当然だがいかにも困ったという声で言う。自分の分は載せてくれなくていいからと言っているという。で、仕方がないからともかく勘九郎の分、一回分を飛ばして、連載はそのまま続けるということに、急遽、決めた。同じ月に八十助が『先代萩』で仁木をやっているのを第八回に書くつもりでいたのを第七回とすることにして、以下、予定の順番を繰り上げる。

秋山さんにしてみれば、そうやって、しばし時間を稼ぐうちに、何とか勘九郎に翻意をさせようという心づもりであったのかもしれない。私にも、正直、その期待はあったけれども、時はむなしく経って、ついに最終回、ではない、第十一回の玉三郎まで来てしまった。

このままでは終わらせたくない、という思いが私にはあった。同時に、決して後から言うのではなく、ある種、予期するものがあった。肚を割って話せばわかる人間だ、いずれは解り合える筈だ、という確信である。これは「勘」であり、「直観」であるという以外はない。事実、八月以降の五カ月間、もちろん困惑はあったものの諦めたことは一度もなかった。このままで終わらせたくないというよりむしろ、このままで終わる筈がない、と思っていたと言った方が正確かもしれない。じつはこの五か月の間に、私はあることを決意していた。秋山さんには内緒である。第十一回が載った一九九九年の二月号が出た後、私は勘九郎に手紙を書いた。

例の一件については、たぶん水掛け論に終わるだけであろうから、何も言うつもりはない。だが次のことだけは、是非とも貴兄に語っておきたい。貴兄は今月、『慶喜命乞』の山岡をつとめているが、(事実、そうだった!)その山岡の心境になって読んでもらいたい。そうすれば、きっと解ってもらえると確信する。

一に、この連載は貴兄を含めて十二人、十二回で完結するという計画でなされている。貴兄を欠いては事は成就しない。別の誰かに入れ替えることも不可能だ。二十一世紀の歌舞伎俳優を語る計画に貴兄を欠くわけにはいかないと考えるからだ。

たとえば貴兄がある計画のもとに舞台をつとめていたとして、それが何かのことで中絶することになったとしたら、どんなにか無念であるに違いない。私にとっても、この連載がこうした形で中絶しなければならないのは堪えられることではない。

二に、もし書くことになったなら、必ずや貴兄を喜ばせ、満足させるものを書いてみせる自信がある。といって、阿諛や迎合をしようというのではない。仮にそんなことをしたところで、喜ぶ貴兄ではない筈だ。

以上のことは、『演劇界』にも誰にも相談してすることではない。ただ私一人の思いを是非とも貴兄に伝えたくてすることである。理解してもらえたなら本懐である。

凡そ、以上のような趣旨だった。手書きで書いた手紙だし、十年を優に過ぎた昔のことで手許に写しを保存してあるわけではないから、言葉遣いに異同はあるだろうが、趣意は違えていない筈だ。和紙に筆で書いたから、便箋で数枚になったろうか。

その頃私は、たまたま、約二週間の予定で北京へ行く仕事があった。私が宮仕えというか、毎月一定の給料の上にボーナスを貰うという生活をしたのは、生涯に十六年間だけのことだが、その前後がちょうどその時期だった。ある小さな短期大学ができたときに専任として拾われたからで、たまたまその年は、二月の末から三月初めまで、中国語の研修に行く学生の引率役を引き受けていたのだった。出発の日に成田へ向かう途次、スーツケースをがらがら押しながら、自宅近くのポストへこの手紙を投函した。帰国まで二週間。どういう結果が待っているか、賭けというなら賭けだった。

          ***

このブログも、本年はまずこれ切りということにいたします。毎度のお愛読、ときどきの拾い読み、たまたまの盗み読みその他その他、如何なる形であれ、お読みくださった方々に感謝いたします。

「勘三郎随想」も、出来れば少々息長く続けていければと思っています。勘三郎のあれこれを、心の移りゆくままに語り述べて行きたい、断続的な連載、とはそのような行き方にふさわしい形をと考えるからです。当然ながら、「随想」以外の回がその間に何回も続くこともあるでしょう。どうぞ気長にお付き合いくださればありがたいと思います。

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