随談第456回 新春各座あれこれ(増補修正版)

あけましておめでとうございます。本年もご愛読賜りますよう。

と、挨拶はしたものの、劇場を見て回り、頂戴した賀状を読んだ限りの印象では、歌舞伎をめぐる新年の話題はどうも明るいとは言い難い。新しい歌舞伎座の話ももちろん出るが、旧臘の勘三郎ショックはまだ生々しいし、おまけに新春早々、團十郎休演に加えて、大阪では猿翁も二日目には休んだという報が伝わってくると、事は、そうですか、それは残念、というだけではすまなくなってくる。以下は、正月の各劇場のロビーで聞いた声である。

         *

曰く、團十郎は大丈夫なのだろうか。4月の歌舞伎座開場を控えて3月には『オセロ』をするというが、年齢からいっても今更『オセロ』でもあるまいではないか? あの大病をする以前ならともかく、油断といったら酷かもしれないが、元気になって体をいとうことを忘れてはいまいか? まだチケットを売り出していないのだし、今からでもやめるわけには行かないのだろうか。 團十郎クラスの役者なら、ひと月働いたら次の月は休むということにしたっていいのではないか?

曰く、一般の勤め人なら勘三郎の死は過労死ではないか? 猿翁にしても勘三郎にしても、意欲のあまり自らも求めてしたことではあるが、体を酷使した結果であることは否定できまい。

曰く、歌舞伎座建替えの3年間に、これだけの人材を失うことになろうと誰が考えたろう?建物自体の老朽化もさることながら、第一線クラスの年齢を考えれば、建替えはまさにラストチャンスぎりぎりだったのではないか? 新しい歌舞伎座は出来たが役者がいないでは、ブラックユーモアにもならない。われわれはいま、恐るべき時代の狭間に立っているのではあるまいか?

曰く曰く曰く・・・もう、このくらいにしよう。翻って言うなら、歌舞伎を真剣に心配している人がこれだけいる、ということでもあるわけだが。

(著者謹言:これを書いた翌日、團十郎の『オセロ』出演取りやめが発表になった。翌月の歌舞伎座杮落としに備えるためとの由。まずはほっとした。)

         *

今度は新年各座駆け回り記と行こう。劇評とはまた別に、見た順で。

まず浅草歌舞伎。海老蔵が4演目すべてに登場するが、順位をつけるなら第1位が『対面』の工藤。周囲は若手ばかりとはいえ、おのずから座頭の風があるのはそれだけが理由ではない。併せて、祖父11代目團十郎のこの役がそうであったように、座頭役であると同時に敵役らしい「悪」をはらんでいるところが魅力的である。第2位は御馳走で出た『毛谷村』の斧右衛門。芸はよくとも御馳走にならない人もあるが、海老蔵は立派に御馳走になっている。天性のスターである証拠だ。第3位は『勧進帳』の弁慶。何よりいいのは、荒事をはらんで弁慶そのものであること。半面、不必要に目を剥いてみたり、その他独善が多い。常に「確信犯」であるのが海老蔵の魅力とはいえ、それもプラスに働いてこそだ。第4位が幡隨長兵衛。序幕、あれでは仲裁どころか、火に油を注ぎに出たようだとの声あり。何より、世話に時代あり時代に世話ありというのがこの手の役の妙味のはずが、セリフにその用意が感じられない。自分にはまだ早いですが、とパンフに自ら語っている。本気でそう言ったとすれば己れを知っているのが救い。・・・というわけで、自分の出し物より付き合いに出た役の方がよかったというのは皮肉だ。

『毛谷村』は愛之助も壱太郎もそれぞれのレベルでよくやっていると思うが、微塵弾正に額を割られたり、踏ん込む庭石が持ち上がらなかったり、その他その他、この素朴なメルヘンのごとき芝居を面白く見せるための先人の工夫を生かさず、敢えて(であろうが)地味なやり方をしている。それぞれ理由はあるのだろうが、この種の芝居になまじな合理主義を持ち込むと却って変痴気論に陥る。それより、お幸の入込みから見せるとか、内容理解に役立つことを考えた方がいい。ところでそのお幸役の上村吉弥が素敵である。吉之丞老いて老女役払底の折、この人あらば、と思わせられる。

新橋演舞場は雀右衛門追悼で『七段目』のおかると『吃又』のお徳を芝雀がやるが、この人ここ数年来の実績はもっと高く評価されるべきである。上げ潮の中、雀右衛門襲名を考えて然るべきではなかろうか。それにしても『七段目』はよかった。平右衛門とおかるがじゃらじゃらと語り合う場面は、廓という歓楽の場の夜も闌けてゆく感じがまさに大人の芝居の風格があった。秋の夜更けのアンニュイ。『七段目』というのは、見る側も快い疲労を覚えながら見る芝居なのだと思う。

ところで幸四郎が福助と『戻橋』をやっているが、二人とも、この手の明治出来の作がよく似合う。次は『大森彦七』辺り如何?

国立劇場で、横綱審議委員の田之助が横綱免許を司る吉田追風の役をやっている。もっともこの洒落を観客の何パーセントが解しただろう? しかし、初心者に猫撫で声で語りかけるばかりが能ではない。ときにこういうややハイブラウな(というほどでもないが)遊びもあって然るべきである。ところで菊之助が初代横綱明石志賀之助という相撲取りの役を演じてなかなか格好いいが、菊サマのこういう役は見たくないとの声も少なからず。この前の勝奴といい、ご当人としては立役志向の現れか?

         *

クイズをひとつ。今月各座で上演の演目のうち、次の演目の共通項はなんでしょう?

『毛谷村』『幡随長兵衛』『吃又』(答えは末尾に)

         *

前進座劇場のさよなら公演で『三人吉三』を通しでやっている。万事につけ前進座流だが、これはこれで悪くない。前進座らしい解釈、テキストレジイ。大詰も原作通り、三人、巴になって刺し違える、とした上で、改めて絵面になって幕を切るというなかなか考えたやり方をしている。これは推奨して然るべきだろう。もっとも、前進座流几帳面も珠に瑕で、「伝吉内」で伝吉が放り捨てた100両の結末を、通常「御竹蔵」でお坊吉三と伝吉のやりとりにして結末をつけるところを、原作の指定に戻して「大音寺前」にしたのは考え過ぎだろう。木屋文里の筋を出さない以上、(つまりあの間、じつは一年という月日が経っているのだ。それを「伝吉内」から釜屋武兵衛を追いかけて行ったことにしているのが現行脚本で、今度もそれに則っている以上)、「御竹蔵」でないと武兵衛も伝吉も老人の割に大変な長距離走者ということになる。いくら駅伝シーズンとはいえ・・・。

矢之輔の和尚はほぼ予期通り。芳三郎のお坊が一番安定しているのは仁の良さ故。国太郎のお嬢はあ、かなり女性的な面を全面に出しているのが、序幕ではやや違和感もあったが、吉祥院では効果を挙げた。

         *

三越の新派は昭和24年の木下恵介監督の松竹映画『お嬢さん乾杯』の劇化。『麦秋』『東京物語』に続く路線だが、『桜の園』をパクった『安城家の舞踏会』を裏返して喜劇(つまりめでたしめでたしに終わる劇)に仕立てたのだということに、今度見ながら気が付いた。映画のシナリオは新藤兼人だが、ああ見えてなかなか洒落ていたのだ。映画の佐野周二の役(『桜の園』のロパーヒン)を正直者の好人物にしたのがミソで、月之助がなかなかいい。原節子役の旧華族令嬢が瀬戸摩純だが、映画だとドライヴをしたり拳闘(ボクシングとはいわない)を見に行ったり、という、つまり『ローマの休日』を先取りしたような映画ならではの場面が舞台では無理なので、ここらが映画台本からの舞台化のむずかしいところ。それと絡んで、瀬戸の演じるこの令嬢が原節子のそれより大分おとなしやかに終始するのがちと歯がゆい。祖母の役の青柳喜伊子が、往年、この手の老女役をよくやっていた岡村文子を彷彿とさせて面白い。(もっとも、この映画では東山千栄子の役だが。)

         *

クイズの答え。『毛谷村』では微塵弾正と六助が、『幡隨長兵衛』では長兵衛が、『吃又』では又平が、それぞれ舞台の上で裃袴をつける。局面が違うとはいえ、これだけ重なるのも珍しい。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です