随談大457回 勘三郎随想(連載第3回)

話半ばで越年になった随想の第三回です。

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北京から帰って間もなく、秋山さんから電話があって、勘三郎の方から、あれにはいろいろ行き違いもあってのことだったから連載の件はOKであるとの返事があったという。あ、そうですかじつは、と私に言葉をはさむゆとりも与えず秋山さんは、それでですね、このところしばらく勘三郎の出演予定が(東京には)ないので、八月の納涼歌舞伎まで待ちましょう、と言う。もっともなことだからもちろん了承したが、例の手紙のことは秋山さんに言いそびれてしまった。だから秋山さんが手紙のことを知っているのか知らないのか、私はいまだに知らない。

『荒川の佐吉』のことは、同じことを言うにも、物の言いようということがある、と今では思っている。本人が念願の役だと言っている時には迂闊にくさすものではない、と忠告だか助言だかをしてくれた先輩もあった。これは、その含蓄を汲み取るべき言葉と思って聞いた。たしかに、この『荒川の佐吉』は好評で、とりわけ相政の役に当時九十二歳という島田正吾がつとめて神韻縹渺とした趣きが印象的だったし、当時歌昇の辰五郎と二人、貧苦の中で卯之吉を守り抜くところなど、まるでO・ヘンリーの小説でも読むような味わいがあって新鮮な感じがしたと、たしか中村哲郎さんが書いているのを読んで、なるほどなァと感心したりもした。評する一言が、読み取る側を右と左に大きく分けてしまう。私にしてもあの『荒川の佐吉』を、舞台成果として悪い成績だったと思ったわけではない。ある一点を取り上げて指摘するときの、その一言を、どういう言葉でどう表現するかということなのだ。

さて再び夏が来て、八月の納涼歌舞伎で勘九郎は『義経千本桜』の「四の切」の忠信を演じた。私はそれを書いて『演劇界』の9月号に載せた。一回分だけ飛び離れた形で掲載されたので、パートⅡが始まるのかと思った読者もいたらしいが、連載はそれで完結し、更にうまい具合に話がまとまって、翌年の7月に三月書房から同じ『21世紀の歌舞伎俳優たち』という書名で出版できることになったのだったが、ところで、話はその前にある。

その年の12月の歌舞伎座夜の部で、勘九郎は『籠釣瓶』の次郎左衛門を初役で演じた。たまたま、かどうか、その歌舞伎座の夜の部の劇評を、『演劇界』は私に書くように言ってきた。この月は、現猿翁の猿之助と團十郎が初顔合わせというのが一つの目玉だったが、(思えば世紀の変わり目のこの頃が、戦後第二世代歌舞伎の花が大きく開いた、ひとつの良き時代であったかもしれない。猿之助と團十郎はこの後、俳優祭の仕切り役を二人でつとめたり、猿之助はまた勘九郎とも、春秋座で『髪結新三』を初役でするにつけて教えを乞うたのが縁で、『上州土産千両首』を共演したりした)、勘九郎にとってもこの治郎左衛門は期するところある役だったことは疑いない。父の当り役に挑戦するについて、父と自分の共通するところ、また異なるところを、あれこれ思ったに違いない。

果たして勘九郎は、序幕の見初めで八ツ橋を見送りながら薄笑いをうかべるとか、いろいろ工夫を試みるなど、用意研究を凝らした治郎左衛門を見せた。それはよくわかるのだが、さて、もうひとつ手放しでほめる気にはなりにくい。これを、どう評したものか? で、たぶん10枚だったと思うがその枚数の過半を費やしていろいろ述べた後、結局これは興味深い試作品であり、性急に評価を急ぐべきものではないと結論した。終わりの部分だけをちょっと引用する。

何だか気むずかしい、意地の悪い言い方をしているように受け取られては困る。(勘九郎氏よ、どうか腹を立てないでもらいたい!)そうではない。私は勘九郎の意図したところと、それが現われたところに微妙なズレがあるのではないかと疑い、それをうまく伝えられないのをもどかしい思いで書いている。何故なのだろう? とそのことが、私にとっては一番気になることである。縁切り場を見終わって私はへとへとになった。勘九郎の苦闘がわがことのように思いやられたからである。一球一球はいい球を投げていながら、それが微妙なところでツボに入っていかない投手の苦闘、というか。

私は是非、次回を待ちたいと思う。今回だけで結論を出してしまいたくない。興味津々たる試作品、と敢えて呼ぼう。勘九郎は未踏の領域へ挑戦しているのだ。

この、勘九郎氏よ、どうか腹を立ててくれるなと括弧をつけて書いたことに、ある友人は、またあんな余計なことを言ってとはらはらし、大先達利根川裕さんは、ありゃ実に面白かった、と劇場のロビーでわざわざ私を呼びとめて笑った。(たしかに、こういうことをつい書きたくなるのは、私の悪い癖かもしれない。山陰地方の血は私の出自には入っていない筈だが、因幡の白兎の血がめぐりめぐって私のDNAに紛れ込んでいるのかもしれない。)

翌月、というのは西暦2000年の年が明けた正月の歌舞伎座で、勘九郎は『娘道成寺』を夜の部の中幕といういいところで踊った。その開幕前のロビーで、私は勘九郎の番頭の石坂清司氏に呼び止められた。石坂氏ともこの時が初対面である。氏は、勘九郎からこれを、と言って一通の封書を私に手渡した。和紙の封筒に固く糊付けしてあって、おそらく勘九郎自身の筆跡と思われる毛筆書きで私の宛名が書いてある。

開けてみると、怒る訳がないじゃありませんか、とあって次に、今でしか踊れない白拍子花子をどうか見てください、とあった。小心な友人の危惧は杞憂であったわけだが、やがて幕が開き、勘九郎の白拍子花子が踊り始めた。「今でしか踊れない白拍子花子を、とはご当人の弁だが、まさにその通りの道成寺だ。五年前にはあのたおやかさ、芸のふくらみはなかったし、年が行ってはあの動きは出来まい。前段はしなやか、中段はたっぷり、後段は疾風迅雷。その間の味付け方が勘九郎シェフならでは」と新聞評に書いた。

勘九郎が(もし読んだとして)これをどう思ったかはわからないが、それからややあって、十七代目の十三回忌追善興行を四月の歌舞伎座で催すについて、報道関係や劇評家などが勘九郎から一席設けて招待されるということがあった。神楽坂の料理店で20名ほど、あるいはもうちょっといただろうか。皆、平素通言で御社日と通称される劇場招待日に顔を合わせている面々である。改まっての挨拶もそこそこに、あの件、まったく異存ありませんからどうぞ、と勘九郎が言ったのは、ちょうどその頃、例の『21世紀の歌舞伎俳優たち』を出版するについて、各優に了解を求める手紙を出した後だったからで、つまりこれで、「あの件」に関する問題はすべて落着したということを意味していた。

はじめに、親父の13回忌追善をどうぞよろしくという挨拶があって、あとはざっくばらんな歓談に終始した。やがて一旦お開きとなったところで、勘九郎から、近いところだし我が家にいらっしゃいませんかと声があって、タクシーに分乗して小日向の家へ招じられた。一々は覚えてないが、ほとんどの人は行ったと思う。小日向の家は十七代目が建てた家で、もちろんこの時はすでに勘九郎が当主になっていたわけだが、まだ、十七代目の家、という雰囲気が強く感じられた。家に帰ると親父がいつもこの椅子にむっつりと座りこんでいてね、何とも言えない雰囲気だった、というような思い出を勘九郎が語って、そうだったろうな、という感じで皆、頷いたりした。

ここでも、三々五々の歓談だったが、どういう脈絡でだったか、他の人もいる前で、「あの時」のことが話題になった。私は言った。「でもね、話せば絶対分り合える筈だと思っていたよ。不思議なようだけど」と言ってから、「でもやっぱり、困ったなあとは思ったけどね」と付け加えると、勘九郎がにっこりと笑った。人なつっこい、いい笑顔だった。(つづく)

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