随談第458回 大鵬逝去

大鵬逝去の報は私の予期以上に社会の反響を呼んでいるようだ。そのことが、私をなにがなし安堵させる。それだけの、いわば国民的な規模の、大きな記憶を大鵬は担っていたのだということになる。

たまたまあの日、土曜日だが早めに行けば大丈夫だろうと、まあ、多寡をくくって国技館へ行ったら、本日は既に完売しましたと札が出て窓口が閉まっている。そういえば初日も満員御礼が出ていたし、平日も、これまでに比べればかなり埋まっていたようだ。多寡の括り方がちと安直に過ぎた結果だから腹は立たない。別の日の前売りを確保して、さて、このまま手ぶらで帰るのも何だからと江戸博物館で尾張徳川家の秘宝展というのを見物して帰宅の途次、立ち寄った床屋のラジオで逝去の報を聞いた。午後3時という。何のことはない、まだ国技館の近辺をうろうろしていた時刻である。何とはなしの因縁を感じる。

相撲に限らない。役者でも、映画俳優でも、プロ野球の選手でも噺家でも、子供の頃から親しんだ世界ならなおのこと、一種の敬意というか、あこがれというか、を以って見るのは、普通、自分より年が上の人たちである。同世代意識、というものを私はあまり持ち合わせていないせいか、同年輩、同世代であるがゆえに応援する、という感覚があまりない。高校野球を抵抗感なく見るようになったのはこちらがオジサンの年配になってからで、自分も同じように若いうちは、汗臭い感じがどうも好かなかった。自分より凄い人たちだから、いいな、と受け入れるのだ。同年輩だと、どんなにヒロイックであっても、何かが透けて見えてしまう。

大鵬は、私にとっては初めての同年、同世代の力士だった。そのことに、かすかな途惑いを覚えたのを覚えている。哀しみを湛えたような眼の色がふしぎな魅力を湛えつつも、白系ロシア人を父に持つ彼は、それまで私が抱いていた「お相撲さん」のイメージとしては、少々違和感を抱かせた。(思えば、ロシア革命という世界史的事件は、野球界にスタルヒン、相撲界に大鵬という偉材をもたらしてくれたことになる。)

入幕当初はまだ痩せていて、長身を折りかがめるような前傾姿勢で相撲を取る。相手は取りにくいだろうし、大鵬の側は力がこもっているように見えない。何とはなしに勝ってしまう、というヤワな感じがした。それが実は並々ならぬ奥深さをもっていることが、やがて段々に見えてくるのだが、そういえば初めの頃は、褐色の弾丸という仇名で突貫力士(という言葉があった。立会い一気の押しを得意とする力士のことだが、いま思えば、この言葉には戦時の響きが感じられないでもない)といわれた房錦のような力士にちょいちょい苦杯を喫していた。(木村房之助という幕内格の行司の倅で、アイドル風のいい男で『房錦物語』という映画になったほどの人気があった。)終生の最大の強敵が柏戸であったように、激しい相撲を取る相手をやや苦手とするところはあった。もう大横綱になってからだが、木村庄之助世紀の誤審と言われた40何連勝だかでストップした一番も、相手は戸田という突貫力士だった。(それにしてもあの時の(何代目だっけ)木村庄之助は、風貌風格といい挙措動作といい素晴らしい行司だった。能の桜間道雄師が、朝日の投書欄にわざわざ投稿して絶賛したことがあった。)

同じ押し相撲でも、突貫ではなく、もちゃっと立って、こんもりと太ったやわらかそうな巨体でもくもく押すのがなかなかの威力で大関になった若羽黒という力士が、はるか後輩の筈だった大鵬があっというまに自分を抜き去って行こうとするのへ、「柏鵬の反逆児」と自ら称して、大鵬戦となるとことさらに意地を見せて、何度か苦杯を嘗めさせたのが面白くて、私もちょいと反逆児気分で応援したものだったが、この若羽黒という力士は土俵外のことでもいろいろ問題があったらしく、やがて反逆児ぶりも通用しなくなるとともに大関から陥落し、やがて姿を消したが、だいぶ経ってから悲惨な死を遂げた。

話がそれた。閑話休題として、大鵬が新入幕で初日から11連勝だかして、ひと足、ふた足ばかり先に入幕して既に役相撲になっていた柏戸が普通なら当らない番付の差をすっ飛ばして「止め男」として対戦、引き落としで勝った相撲というのは有名だが、その昭和35年初場所というのは栃錦が最後の優勝をした場所で、その翌場所が、例の若乃花と千穐楽に全勝対決をするという場所だが、その何日目だかに、後にも先にも一番限り、栃錦と大鵬の対戦というのがあった。つまり大鵬にとっては初の上位で取る場所だったわけだが、この一番は、鎧袖一触という感じであっという間に栃錦が押し出してしまった。栃錦は次の夏場所に初日二日目と連敗してそのまま引退してしまうから、二人の対戦はこれ一番限りということになる。

ついでだが、同じその場所に柏戸も栃錦と対戦し、土俵際まで押し込みながら突き落としか何かで退けられてしまうという一番を、たまたまホテルのテレビで見た吉田秀和さんが、昭和の初期の若き日に当時の横綱常ノ花に声援を送っていた頃以来、30年ぶりに相撲好きの火がついて、柏戸にぞっこん惚れこんでしまうということになる。音楽評論の泰斗吉田秀和の相撲好きは有名だが、その端緒となったのも、同じこの昭和35年春場所ということになるわけだが(音に聞く栃錦の功技とはこれかと舌を巻きながら、同時にその敗れた方の若い力士に目を奪われた、と書いているから、本当に30年間、相撲を見なかったのだろう)、この時の柏鵬両者の栃錦戦をもしバロメーターにするなら、この時点では柏戸の方がやや先輩な分だけ、一日の長があったことは間違いない。そうしてそれから丸二年と経たない翌年の秋場所に、長身で吊りが得意なところから起重機と仇名のついた明歩谷という、関脇まで取った力士と三人で優勝決定戦をして、二人同時に横綱に昇進したころには、もう、どうしても柏戸の方が分が悪くなってしまっていた。柏戸の風貌から、それまでの颯爽たる明るさが消えて、重く苦渋を湛えるかのようになってゆくのを見るのが、特に柏戸ファンというわけではなくとも切なかった。

栃錦が引退して、しばらくは独り天下が続くかと思われた若乃花が、逆に目標を見失ったかのように急速に老け込んで行ったこともあって、時代はあっという間に「柏鵬」の時代になってしまった。「栃若」と「柏鵬」では十数歳もの年齢差がある。その一種の喪失感と、新時代の到来する何とも言いようのない感覚と、実はあの時ほど、時代の変わり目というものを如実に見る思いをしたことはない。事は相撲に限った話ではない。その頃次々と民放テレビが開局し、夕方テレビをつければ第3チャンネル以外はどの局でも相撲を放送していたのだった。

栃若時代もそうだったが、柏鵬の時代も多士済々だった。ついこの間この欄に書いた小兵の横綱の栃の海とか、学生相撲から入ってプリンス然とした豊山に、学生上がりなどに負けるかとライバル意識を燃やした佐田の山とか、柏戸の猛攻に耐えながら土俵を爪先立って三分の二周もした挙句に打っ棄って勝った北葉山とか。前田川というやはり突貫力士で、柏鵬にだけ勝ってその他は全部負けて2勝13敗という珍記録を作った力士もいた。

大鵬の強さをつくづく知ったのは、柏戸との取組もさることながら、突っ張りで横綱になった佐田の山に突っ張りで応じて突き勝ってしまった一番を見たときだった。型がない相撲と批判もされたものだが、実はすべてを吸収し、含んでいたのだということを、それで知った。暖簾に腕押しというか、つきたての餅のような柔軟さで、相手は魅入られたように吸い込まれてしまう感じだった。立会いに胸の前で両腕をクロスして、当った時には前捌きよく自分の十分に組みとめてしまう。およそ隙のない相撲といえば、大鵬に勝る力士はなかったろう。また吉田秀和さんだが、大鵬をフィッシャー=ディスカウに、じゃなかった、フィッシャー=ディスカウを大鵬になぞらえたのは、半面、あまり隙がないので面白味に欠けるという批判も時として受ける、というところにあった。確かに、6連覇を二度もやって、ある時の優勝インタビューの模様を、まるで歌舞伎の舞台稽古みたいな手際よさ、と書いた記事があった。(実際の大鵬は、フィッシャー=ディスカウどころかこまどり姉妹の大ファンで、暇があればドーナツ盤(というのが当時あった)のレコードを聴いているので、兄弟子たちもみな歌詞まで覚えてしまった、とその頃貸本で購読していた『相撲』という雑誌で読んだ記憶がある。)

大鵬も柏戸も、当時はひと際の体格が圧倒的のように見えていたが、いま、当時のビデオを見ると、現在の力士の方がはるかに大きいのがわかる。折からの東京オリンピックで、タマラ・プレスといったっけ、ソ連の女子砲丸投げの選手が圧倒的な巨体で優勝してマスコミが女大鵬と名付けたり、やはり投擲競技の実況放送で、外国選手の圧倒的な肉体に感じ入った解説者が、なにしろ向こうは大鵬柏戸みたいな人たちが代表になっているんですからねえ、と溜息まじりに言ったのをよく覚えている。(つまり、だから日本の選手が敵うわけありませんよ、ということで、その頃の日本選手には室伏みたいな体格の選手はいなかった。)

「巨人大鵬玉子焼き」という言葉が独り歩きして、今度も、まるで刺身に添えるツマのように、訃を伝えるニュースでもこの言葉が出てくるが、前から気になっているのだが、あれは、ほめ言葉なのだろうか? 本来はその裏に、世相に対する皮肉な意味合いが籠められていたのではなかったろうか? 「巨人も大鵬も子供でもわかる、だが・・・」という含みがあっての上の「玉子焼き」であって、大鵬自身は不快がっていたというが、当然だろう。ついでのようだが、同じ頃に生まれた言葉で「超一流」というのも、あれは本来「超二流」であった筈である。言い出したのは野球の三原監督で、西鉄ライオンズをそれこそ超一流の地位に押し上げたのち、弱小球団だった大洋ホエールズの監督になって日本シリーズにまで勝ってしまったとき(昭和35年、柏鵬が横綱になる前年の、柏鵬時代黎明期である)、早稲田を出たての新人だった近藤昭仁(のちに監督になった人である)という選手を評して「超二流」といったのだ。稲尾や長嶋のような意味での一流ではない。が、時に一流にもまさる仕事をする。だから、一流ではないが単なる二流とは違う、という絶妙のニュアンス。近藤に限らず、そのときの大洋は超二流の選手を使いこなして日本一になったのだった。

そういう、含みのある言葉だったはずのものが、「巨人大鵬玉子焼き」も、「超二流」は「超一流」と言い換えられて、無条件に絶対化されてしまったのだ。それもまた、民意の反映には違いないから、今更こんなことを言ってもゴマメの歯ぎしりのようなものだが、「元横綱の大鵬さんが亡くなりました。巨人大鵬玉子焼きと言われた大横綱でした」などと、すらすらすいっとニュース・アナウンサーが台本を読み上げるのを聞いていると、つい、引っかかるものを覚えずにはいられない。

ともあれ、いま改めて思うのは、贔屓という意味でならいわゆる大鵬びいきでは私は決してなかったが、そうしたことを超えた共感があったのだ、ということである。これこそが、同時代の空気を吸った者の感覚というものだろう。自分の中から大きなものが消えてゆく感じを、いま不思議なほど味わっている。それにつけても、相撲協会は、なぜ、協会葬にしないのだろう?

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