随談第462回 家庭劇尽し-今月の舞台から-

もっと早くに載せるつもりで書いたのだが、團十郎のことがあったので今頃になってしまった。まあ、そのつもりで読んでください。

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今月は、歌舞伎が日生劇場の高麗屋一家の芝居、新橋演舞場が喜劇名作公演と称して昔の松竹新喜劇に新派が合体した公演、明治座が藤山直美と三田佳子顔合わせのホームドラマ時代劇といったところが並んだのを二、三日のうちに見て回った。気が付いたのは、どれも「家庭」というか「家族」というか、まあひっくるめてファミリーというものがテーマになった芝居だということである。

日生の場合は、染五郎の復帰第一回というのが眼目にあって『吉野山』がその披露演目だが、開幕に先立って「パパ」の幸四郎が「倅」のためにわざわざ「口上」をプログラムの一演目として述べる。折角そうするのなら、もう少し「世話」に砕けてざっくばらんなトークにして、怪我の模様だの回復の様子だの、つい前々日に死去した團十郎のことなど、いろいろ語ってくれるかと期待したが、倅染五郎復帰の挨拶を四角四面の「時代」な口上口調で語るに留まった。ま、気取り屋さんらしい幸四郎風というところか。ともあれこうして、『吉野山』一幕が倅を思うファミリーの愛にくるんで差し出される。

次が「弁天堂」以下の序幕をつけた『新皿屋舖』だが納まるところは幸四郎が宗五郎になる「宗五郎内」だから、見事にファミリー劇として完結する。それにこの宗五郎、幸四郎がこのところしきりに手がける黙阿弥物の中で一番いい。その理由は、宗五郎と幸四郎とが重なり合って、一家の長としての男の芝居としての真実感と哀感があるところにある。理屈を言えば宗五郎はお蔦の父ではなく兄なわけだが、舞台から伝わってくるのは一家を支える家長としての宗五郎の、男としての哀しみである。

幸四郎宗五郎には、その「男」がある。そうしてこれは、世の変遷とともに、世の中から、ひいては歌舞伎の舞台から、だんだん稀薄なものになりつつあるものなのだ。幸四郎には、一家の「家長」としての男の骨格がある。それがいささか「パパ」というムードに味付けされがちだとしても。

演舞場の松竹新喜劇は面白かった。久し振りで芝居らしい芝居を見た満足感を味わうことが出来た、と言った方がより正確だろう。『お種と仙太郎』は茂林寺文福、つまり曾我廼家十吾作の旧松竹家庭劇、『高津の富くじ』は松竹新喜劇全盛期の当り狂言、『おやじの女』は館直志、つまり先代渋谷天外作の、新喜劇がまだ藤山寛美王朝になる前の、天外が座長であり立作者であった時代の、つまりきっちりと脚本が作られていた頃の作。三一致の法則、などというものをここに持ち出すのは半分は冗談だが、しかし『お種と仙太郎』にしても『おやじの女』にしても、ラシーヌが見たらびっくりするかもしれないほど、ひとつの場所、ひとつの時の流れ、ひとつの物語で無駄なく作られ、しかも観客を抱腹絶倒させた上、ああよかった、ああ面白かった、と口々に言いながら劇場を後にする芝居になっている。『高津の富くじ』だって、場割は三場と変わるが、筋がひとつの流れに無駄なく構成されていることに変りはない。どの作も、上演時間は1時間前後に納まっている。つまり、茂林寺文福でも館直志(タテ・ナオシと読む。つまり建て直し、である)でも、客にわかりやすく、飽きさせず、満足させるにはどうすればよいかを知り尽くした結果、ラシーヌの考えたのと相似形の劇作術を体得してしまったのだろう。

で、ところで、話を本題に戻すと、これらがすべて、家庭・家族、つまりファミリーとは何ぞや、ということを「自ずと」考えさせる芝居だということである。(「自ずと」を括弧に入れたのにご留意ありたい。)『お種と仙太郎』など、初演の昭和8年頃は、姑の嫁いびりという、当時まさに切実な問題をテーマにしていたわけだが、そうした社会状況が様変わりした今なら今で、そこに何らかのアナロジイを観客ひとりひとりが見出しながら笑うことが出来る。『おやじの女』にしても、文楽の義太夫語りの家、という時代的にも地域的にも特定・特殊の世界を舞台にしながら、そこに展開するスト-リイには、現代の観客誰しもが、わが身に思い当るものを見出しながら見ることが出来る。

それにしても、当代の渋谷天外も、(たまにしか見る機会がないが)いい役者になったものだなあ。曾我廼家八十吉だの寛太郎だのにしても、新喜劇という土壌がなかったら生まれようがない役者である。そこへ、八重子・久里子をはじめとする新派連中がこぞって出て、少しの違和感もない。これを驚くべきことと考えるか、当然のことと考えるか。丹羽貞仁も、よく馴染んでようやく役者らしくなってきた(といったら失礼か? かつての大川橋蔵を知る者としては、この俳優の消長が気にならないわけには行かない)。

いつも二月の演舞場は座頭だった藤山直美が、今年は演舞場を明け渡して明治座に出て三田佳子と二枚看板の芝居を開けている。こちらも髷を乗せた時代物ファミリー劇である。金持の呉服屋としがない居酒屋という、どちらも母一人子一人の(母子家庭)の母親同士が、娘と倅が恋仲というロミオとジュリエット状態になっての激突という、家族・家庭がテーマになっている。が、客をつかまえ喜ばせるのを、直美と三田の激突部分と肝胆相照らす部分を個人プレイとして肥大化して見せるように脚本ができているので、観客は喜んでいるし、私だって決してつまらなくはなかったが、ちょっともったいないなあと、正直なところ思う。演舞場の三本だって、個人プレイで笑わせ、喜ばせるところはふんだんに織り込まれているのだが、(「古典」としてくり返し上演されているのだから当然とはいえ)脚本と突出部分とのバランスといい、出たり引いたりの呼吸が絶妙に出来ている。こちらは初物だから、ストレートに比較するのは無理な話とはいえ、ちょいと直美にもたれかかった部分が大きすぎるのが惜しい。

と、今月の大劇場三座すべてがファミリー劇というのは、結局、芝居の泣かせ所、笑わせどころ、つまりは落としどころというのはここじゃわやいと、改めて思わせられる。歌舞伎不在に近いこの月だが、あながち寂しい思いもしなかった。

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