随談第463回 佐藤俊一郎著『今日は志ん朝 あしたはショパン』のこと

今回は本の紹介、併せて少々PRを仕ろうという魂胆である。『演劇界』の古くからの読者なら(といっても、90年代頃からかな)劇評その他の書き手として、佐藤俊一郎という名前を覚えておいでと思う。じつは私とは中学以来の友人で、一昨年、ぽっくり逝ってしまった。歌舞伎の劇評が、業績の分量としては一番多いのだが、本職はドイツ文学者で、大學でドイツ語を教えて身の生業としていた。多趣味というか、歌舞伎の他にも、クラシック、落語、映画(とりわけ、往年の時代劇映画にくわしかった)、推理小説その他その他、池袋から急行で50分はかかる私鉄の沿線住まいであったにもかかわらず、どう見ても頑健な質でもなかったにもかかわらず、まめに見て、聴いて、歩いていた。鑑賞家として、まずは一風を成していたと言っていい。

ところが、この男の、ひとつの欠点というべきか、筆は立つくせに(エッセイストとしてもちょっとしたものだった)、依頼がないと、何故か書こうとしない。結局、自ら発起して著書をものすることなく終わってしまった。一種のエピキュリアンとして全うしたとも言えるが、半世紀の余、傍で見ていた者としては、体よく言えば、惜しい。ぶっちゃけて言うなら、歯がゆい。

あるとき、漱石の『三四郎』に出てくる「偉大なる暗闇」と教え子から仇名を奉られている廣田先生という人物になぞらえて、お前も、「偉大」とはいえまいが「ちょっとした」暗闇だ、と言ってやったことがあった。アルプスはモンブランの下を通り抜けるトンネルには及びもつかないにせよ、おかる勘平が道行をする戸塚の山の下を、いま東海道線や横須賀戦の下り列車が最初にくぐる、あの短いトンネルの闇よりは、貴公の脳髄の闇の方が大きいだろう、と。

それからかれこれ、十数年は少なめに見積もっても経った。なにやら書いているらしい、という噂は聞いたが、本人は何も言わない。こちらも、敢えて訊かない。で、また何年か相経ち申したところで、あっけなく逝ってしまった。そこで、夫人に提案して、遺稿集を出してはということになった。ご遺族が書斎を探してみると、果たして、見つかった。『歌右衛門と志ん朝の時代』と題して、パソコンなど触ったこともない人間だから、四百字詰用紙に一九〇枚。それを聞いて、ウームと、胸にちょっぴり迫るものがあった。いつだったか、一八〇枚書けば単行本一冊分になるよ、と入れ知恵をしたことがある。それで、一九〇枚書いた、というわけなのか? だとすれば、何という、この・・・

コピーを取って送ってもらい、目を通す。完成はしていないが、まず九分通り以上は成っていると見た。もちろん、そのままでは完全原稿とは言えないから、多少、手を入れて整備する必要はあるし、それより何より、本人がこの先、完成品に仕上げるためにどれだけ手を加えようと考えていたかは、計りようがない。私のなすべきはモーツァルトに於けるジュスマイヤーのようなものか? もっともジュスマイヤーと違うのは、誤記や表記の修正や整合、修辞上の整備など、絆創膏を貼り包帯を巻き、裂け目に軟膏を擦り込むなどして手当てをしただけで、内容に関わるような補綴は一切しない。とにかく、これなら世に出して恥ずかしくないし、故人に余計なことをするなと言われることもないであろう、というところまで持ってきた。これを、とにかく世に出しましょう。奥さんにそう言った。

あとのことはごちゃごちゃ書くまい。故人とも私とも親しい三人の方々に協力を願って、出来上がったのがこれである。どうせなら、本業のドイツ文学や、本人が一番自負するところあったと思しいエッセイやら、共有するもうひとつの趣味道楽であった連句やら、「文人」としての故人の多面的な全貌を示すには、アンソロジイという形にするのが一番ふさわしかろうということになった。そして、とてものことに、ただ知己の方々に配るだけでなく、こういう「文人」が皆さんと同時代にいたのだぞ、ということを世に示し、その文業を世に問いたいということになった。

と、いうわけである。歌舞伎好きの方々、落語好きの方々なら、まず三二〇〇円は惜しくあるまい。歌舞伎における歌右衛門、落語における志ん朝、共に故人にとっては格別の存在であった。普通の意味での、だからこれは批評ではない。そこがミソである。

ドイツ文学の、研究という立場からの評価はどういうことになるのか知らないが、少なくとも、大學の紀要などに眠っていたのをこういう形で世に示しただけでも意義はある筈だと思う。愛好者になら、多々、興味があるであろう。

ともあれ、ちょっとした暗闇先生もこれだけのことはした。少なくとも、ざらにある本ではないことは、間違いない。お求めいただけるなら、友としてお礼を申し上げます。Amazonに出ています。

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