随談第464回 勘三郎随想(その5)

團十郎逝去という激震の余波やら何やらで「勘三郎随想」もしばらく休載状態でしたが、そろそろ再開します。前回までの分は、左側の「ずいだん」というところをクリックすると見つかります。では・・

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その時は、へーえと思っただけでピンと来なかったが、ああ、そういうことだったのか、と後になって思い当った。

勘三郎が安藤鶴夫の名前を出したのには理由がある。安藤がいろいろなところで書いていることだが、安藤に言わせると、自分は好き嫌いがはっきりした人間で、一度嫌いだと思ったらひるがえすことはないのだが、例外が二人だけ、大嫌いだったのが大の贔屓になったのがいる。一人は文楽の人形遣いの桐竹紋十郎、もう一人が昔の中村もしほだった、それが17代目勘三郎になってから大好きな役者になった、というのだ。桐竹紋十郎は今の吉田蓑助の師匠で、華麗な女形の人形を使う名人だった。見せる芸だったから、まだ若気が勝っていた頃はそれが衒気にも嫌味にも傾くこともあって、それを安藤が嫌った、ということは、その頃を知らない私にも何となく想像がつく。そこへ17代目の若き日であるもしほを並べると、安藤の言わんとするところが、私なりに見えてくる。

17代目がまだ精悍で盛んだったころ、テレビで二人が対談する番組があって、その中で面と向かって、安藤が、あんたの若い頃、中村もしほという役者は大っ嫌いだったんだ、と言っているのを見たこともある。どうして嫌いだったかといえば、若い頃は、どうだ、俺はうめえだろうというのが鼻の下にぶらさがっていて、気障で鼻持ちならない、嫌味な役者だと思っていたからだ、という。安藤の書いたものを読むと、17代目のことをほめるようになったのは、1950年に17代目勘三郎を襲名してから以降で、大の贔屓ということを広言して憚らないようになったのは、1955年に18代目が生まれた年の暮に業病で倒れて、半年間舞台を休んで再起して間もなくの頃からのように思われる。当時の『演劇界』のグラビアに、17代目の「喜撰」の写真が載って、それにつけた随筆に、素晴らしい役者が誕生した、と書いた。つまりそのとき、アンツルは17代目に惚れたのだ。

とはいっても、いつもほめっ放しだったわけではない。国立劇場の開場式の『三番叟』で勘三郎の翁が威張っていて不愉快だった、などとも書いている。そのつもりで探せば、まだほかにもあるだろう。ダメなときにはダメとはっきり言う。

つまり、あのとき勘三郎が安藤鶴夫の名前を出したのは、そういう、父の17代目に対する安藤鶴夫のような、面と向かってでもずばずば直言するような批評家の存在を求めていた、あるいは欲しいと思っていた、ということだったのか? まあしかし、アンツルと私とでは、(批評家としての力量や貫録の差はともかくとしても)役者でいえば「仁」が違いすぎる。それを察知しての、あの言葉だったに違いない。そう気が付いたのは、何やらの後知恵よろしく、何日も経ってからのことである。そもそも私自身が、たしかに読者として愛読はしたけれど、またひそかに、独特の文体を真似したり盗んだりもさせてはもらったが、シンパシイとか親和力といったものは、安藤鶴夫という批評家にあまり感じたことがない。言っていることに共感はしても、肌合いが違いすぎる。そもそも、ちょっと強面すぎる。世代も違うから接する機会もなかったが、仮にあったとしても、気安く話しかけたりはしなかった、いや、出来なかったろう。

ともあれ、こうして勘三郎との(事実上の)初対面の一日は終わった。もっとも前にも一度会って挨拶をしたことはあって、そのことも、勘三郎ははっきり覚えていたが、その後に「ああいうこと」があって「こういうこと」になったこの日が、新たな始まりということになる。「また会いましょう。それから、また文通しましょう」と、辞去する私に手を差出しながら、勘三郎はちょっと意味ありげに、自分でも「文通」という言葉がおかしかったかのように、ニコッと笑って言った。この前歌舞伎座のロビーで番頭の石坂氏を通じて手渡された手紙が和紙の封筒と便箋に毛筆で書かれていたが、それは、一年前に私が送りつけた手紙がやはり和紙の封筒と便箋に毛筆で書いたのへ対する、勘三郎らしい「お返し」だったのか? 

やがてその夏、例の『21世紀の歌舞伎俳優たち』が出版され、版元である三月書房の当時の吉川志都子社長が出版記念会を開きましょう、すべては任せておいて、とおっしゃるままに、なんと、対象にした俳優全員(『演劇界』に載せた十二人に、現魁春の松江に時蔵、福助、橋之助の四人を書き加えて十六人になった)に発起人になってもらうという破天荒なことを発案され、それが実現してしまうというようなことがあった。富十郎、團十郎、八十助(だった、まだその時は)、時蔵、魁春といった人たちが出席してくれたが、勘三郎は,七月の末のその日が出演中の松竹座だったかの楽日だったために、祝電を送ってくれた。つまりこれで、「あのこと」はすべて終わったことになる。

ところで「文通」だが、その後、手紙のやりとりをする文字通りの「文通」をするということは、結局それ切りで終わった。だからそれとは別だが、翌2001年の正月、浅草公会堂の花形歌舞伎が、海老蔵が大ブレークしたために海老蔵・菊之助組は浅草を卒業、この年から一気に若返って、勘太郎・七之助たちの出番となった。私たちの仕事始めは、例年ほぼ決まっていて、三日の浅草公会堂に始まり、四日が歌舞伎座という処はほぼ動かない。その三日。浅草を見に行ったとき、幕間の狭いロビーがごった返す中を、向こうから、こちらの姿を見つけたらしく、勘三郎が人ごみを掻き分けるようにして近づいてきた。あのねえ、あれ、今度はうまく行ったと思うんだ。手応えが掴めたと思う、と言ったのは、暮の南座で玉三郎の八ッ橋で『籠釣瓶』を出して、次郎左衛門をつとめた時のことを言っているのだった。つまりこれが、あのときの私の書いた劇評に対する勘三郎の「返信」なのだった。

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