随談第465回 勘三郎随想(その6)

勘三郎の死から、気がついてみると、もう三カ月も経っていることに愕然とする。この時間感覚のぶれの一大原因が、團十郎の死というものがその間にあったが故であることは分かっていても、現実にもうそれだけの日数が経ってしまっているという事実は、動かしようがない。そのときにはどんなに信じ難く思い、神経が剥き出しになったように心の壁がざらついたとしても、時が経てば、平気で喜んだり笑ったりし、その瞬間には故人のことを忘れていた自分に気がついてハッとする。それが生きているということであり、だから、生きて行く限り、人は、いや私たちは、死んでいった者とは別の時間と空間に在るのだということを、思い知らざるを得なくなる。

勘三郎との、個人としての関わりから、この随想を書き始めたのだった。ふとした、トラブルといえば、まあトラブルがきっかけになって交わりが始まったわけだが、形としては、勘三郎の方から私に関心を寄せて働きかけてきたということになる。それが一層、深まるようになったのも、やはり勘三郎の方からだった。歌舞伎座で、「北条源氏」の『末摘花』を勘三郎がやった時だから、二〇〇一年の十二月ということになる。一度、ゆっくり話をしたいから、という伝言が届いた。

赤坂のTBSの近くの、小体(こてい)な店だった。その日私は新橋演舞場の芝居を夜の部まで見る予定だったから、九時近くの終演後に駈け付けることになる。勘三郎の方も、夜の部の役が終わってからだが、ひと足先になる。渡されたアクセスの地図を頼りに到着すると、何と、勘三郎が店先まで出て待っていた。比較的暖かな晩だったとはいえ、十二月も半ばである。勘三郎にしてみれば当り前のことだったのかもしれないが、心に留まるのはその気さくさが、ごく自然であることである。

奥の小部屋が空くまでちょっと時間があるので、それまでは入れ込みの席で、ということになり小酌を始める。照明は程よく落としてあるから回りを気にする必要はないが、声は聞こえるから、それと察しているらしい気配はある。しかしそうしたことにはまったく頓着なく、会話はごく自然に運ぶ。当り前のようでいて、じつは、こういう自然さはやはり誰にでも出来ることではない。敢えて言うなら、まっとうな、citizenshipというほどの意味で市民意識がごく自然に身についていなければ、こうはいかない。そのことを、ことさらに感服したなどと言ったらかえって不自然になる。有名人だからということを抜きにしたら、まったく一介の客としてごく自然に、全体の中に溶け込んでいる。

このときのことを、それから間もない頃、二、三の女性の友人に話をしたとき、もしこれが、團十郎が店の外まで出て待っていてくれたとしたら、というと、コワーイ、と女性たちが口を揃えて言ったので大笑いになったことがある。もちろんそれは、團十郎への好感と敬意に裏打ちされてのことであって、そこにいささかの隔意も批判もありはしない。むしろちょっと大袈裟に言えば、勘三郎・團十郎比較論の序章とも言い得る性質のことだった。團十郎が、もし普通人が行き交う街頭に立てば、たちまちそこにひとつの「偉」なるものが存在する空間が出来上がるだろう。カメラに撮れば、ピントのぼやけた群衆のなかにひとり團十郎だけが、フォーカスされた姿で映し出されるであろう。だが勘三郎が同じ場に立ったとすれば、ごく自然に、群衆の一人として写真に納まるに違いない。つまり、團十郎はやはり時代物役者で、勘三郎は世話物役者だということでもある。

こののち、勘三郎の破天荒な活動は振幅の度をますます増大し、その様子はメディアを通じて喧伝されることになるが、しかしこの時点でも、すでにその夏、野田秀樹と組んだ『研辰の討たれ』を歌舞伎座の舞台に乗せ、つい前月には、前年に平成中村座の立ち上げを実現した余勢を駆るかのように、『千本桜』の三役を中村座の空間で演じてのけるということを果たしている。もしかしたら、勘三郎がそういうタイミングで声を掛けてきたのには、勘三郎としてひとつの考えがあったのかもしれない。しかしそうしたことに関わるような話題は、もし十八代目襲名ということになったら披露演目の中に『野田版・研辰の討たれ』を出そうと思うんだ、と言ったことぐらいだったか。それも、別に意見を求めようという感じではなかったから、私もただ、フンフンと聞いていただけだった。『千本桜』についてなら、前月に国立劇場で團十郎がやはり三役を演じたのと競演になったところだったから、それについての批評を求めていたのかもしれない。うん、團十郎さんはやはり立派だと思うよと言ったとき、一瞬、目に動くものがあったが、しかしそれだけで、後は頷いて聴いていた。

待ち合わせが九時という時刻であった割には、かなりゆっくりと話をしたという記憶がある。勘三郎さんのお客さんで、長い時間、こんなに真剣に芝居の話ばっかりしている人は初めてだと、店の主人が感心してだか呆れてだか言っていたのも思い出す。

こうした時間を、それからも時々、持つようになった。さほど頻繁というわけではない。とくに十八代目を襲名してからは、その身辺は、それまでとは比較にならないくらい多忙になった気配があり、だから回数にすれば、それほど何度もというわけではない。必要があって他の者が同席したり、好江夫人も一緒だったりということはあるが、それ以外は常に二人だけだったのは、勘三郎の方が、私をそういう相手と考えていたからだろう。私も、そういうつもりで相手になっていた。ただひたすら、忌憚なく芝居の話をする。それだけである。何か具体的な相談事を持ちかけられたり、といったことも皆無である。そういう相手は、おそらく他にあったのだろうし、たぶん、大概のことは自分ひとりで決めていたのではないかという気がする。そういうこととは別の話相手として、もし自惚れでなければ、私は求められていたのであったろう。

かなり思い切ったことも言った。しかしそれは、思ったことを遠慮なく言う、というだけのことであって、ブレーンとして建言をしたり忠告や助言をしたり求められたり、というのとは違う。こちらの言ったことに対して、いやそれは違う、というようなことは当然あるが、不機嫌になったり怒ったりということも、一切なかった。こうした形で会う最後になってしまったのは、まだ病の気配など鵜の毛で突くほどもなかった二〇一〇年の六月、コクーン歌舞伎で『佐倉義民伝』をやっていた時である。

ねえ、気が付いた?と席に着くなり言ったのは、ついその四月に歌舞伎座さよなら公演が終わり、楽日の翌日に顔寄せの手締め式があって、何番かの演目の中心が大幹部総出で素踊りで踊ったご祝儀の舞踊で、途中何回となく、入れ替わり立ち替わりしながら、相手が変って遣り取りがあり、上下になって極まったりする振りがある、その中で吉右衛門とからむ件りが幾度となくあって、ホオと思いながら見ていたのだった。ウン、すぐわかった、というと、お蔭さまでああいうことになったんだ、と言う。ご存じの向きも少なくないと思うから書くのだが、それまでかなりしばらくの間、中村屋・播磨屋の共演というものが見られない時期が続いていた。それが、さよなら公演の最後になって、めでたく和議成立ということなのだった。それはめでたい、何よりこちらは大いに楽しみが増えることになる、というとちょっと照れたように笑顔を見せた。

いまさらそんなことをここには書くまいが、不仲になった真の原因はわからないなりに、幾度か忠告めいたことを言ったことはあった。がその都度、いいんだよ、もう、と聞く耳を持とうとはしなかった。それぞれに理由があることなのだろうし、勘三郎には勘三郎なりの言い分があって、そのいくつかは聞かせくれたこともあった。なるほど、とも思いながら、吉右衛門には吉右衛門の理由があるのだろうとも思われた。役者同士の喧嘩はあまり真に受けない方がいいですよ、いつの間にか仲直りしていたりしますからね、と昔、かつての『演劇界』の編集長の利倉幸一さんが教えてくれたのを思い出したりしながら、私は聞いていた。それがこうして和議が成立して、それがああいう振付としてさりげないお披露目となったというわけだった。いいんだよ、もう、と言いながら、勘三郎としても気にしていたというわけだった。そういうときの勘三郎は、何とも「いい奴」なのだった。

倒れたのはその秋も暮れである。ようやく回復の緒について、翌11年の九月に、大阪の新歌舞伎座で再起第一歩の公演があって、『お祭り』を踊った。かつて十七代目が、永いこと男の子に恵まれなかったのがようやく、五月に勘九郎が生まれてその年の秋の暮、業病に倒れて半年後、復帰したときの演目が『お祭り』だった。「待ってました」と大向こうから声が掛るのを「待っていたとはありがてえ」と受ける。いまでは、しばらく病気で休演していた役者が再起の時、お定まりのようになっている「これ」は、実は半世紀の余の昔に、十七代目が始めたことなのだ。それを、いま十八代目がやっている。他の人の場合とは場合が違う。踊りも、表面的には、どこと言って寸分、違うことはない。その日に見に行くことは知らせてあったから、事情が許すなら、という気はまったくなかったわけではなかったが、劇場に行ってみると、楽屋に戻ればもうそのまま、横になっている状態なのだと聞いた。くれぐれもよろしく、とだけ伝えて帰った。

翌10月の末に勘九郎襲名のパーティがオークラであって、その折に立ち話をしたのが最後となった。この間はせっかく見に来てくれたのにすみませんと、笑顔で握手を求めに来る顔は、元気ではあったが、どこか、何かが違っているように思ったのは気のせいだったのかどうか。11月から平成中村座のロングラン公演が始まって、仁左衛門と『沼津』をやった。いく度も務めたコンビであり、いままでにないよさがあったのも事実なら、まだ昔の勢いが戻っていないと思ったのも事実である。12月の『寺子屋』の松王丸についても同じことが言えたが、平作になら「滋味」と言えても、松王丸に同じ言葉を言ってもほめたことにならない。正直、如何なる表現をもって批評するかに困惑した。今だから言えるのだが、羽織を着た松王丸の背中が薄くそげて見えた。同じ月、勘九郎襲名を前にした勘太郎が『関の扉』を踊って、未完成なりに大きな役者ぶりを見せた。いいでしょう? 播磨屋に教わったのですよ、と石坂さんが嬉しそうに言っていた。

正月が開けて、勘三郎は今度は『対面』の十郎を演じた。お手本のようにきっちりした十郎だったが、心なしかふくらみがいま一つのように思われた。翌二月は新橋演舞場に舞台を移しての新勘九郎の襲名公演である。新しい勘九郎は『土蜘』を見事に演じて大きな飛躍を見せた。いいでしょう? 播磨屋に教わったのです、と石坂さんがこの前と同じことをさらにもっと嬉しそうに言った。勘三郎は、吉右衛門の長兵衛に権八を演じて素敵な『鈴ヶ森』を見せた。いいでしょう? 17代目と白鸚さんの舞台を見るようで身震いが出ました、と石坂さんが言った。楽日に『鈴ヶ森』の幕が閉まると、吉右衛門の方から握手を求めたそうだ、という話をのちになって聞いた。私は、良かったと思いながら、しかしいずれもっといい権八が見られるはずだ、と欲張りなことを密かに思ったりした。本葬の折の弔辞で、三津五郎がこの権八を見て、イヤ恐れ入った、と勘三郎本人に向かって言いに行ったという話を披露したのは多くの人の知るところであろう。今にして思えば、あれこそが、勘三郎が私たちへ遺してくれた置き土産だったのかもしれない。

その後、再び中村座へ戻って、打上げの月に得意の『髪結新三と』初役の『め組の喧嘩』を演じて、回復はようやく万全という姿を見せた。もう大丈夫だ、と今度は掛け値なしに思った。楽日の打ち上げの模様は、テレビで何度も流されたから知る人は多いだろう。その翌日が誕生祝で、その翌日の検診で癌が発見される。それが、元気な姿を見せた最後となって、以降のことは、いまでは誰もが知る通りである。

こうして、約十年になる勘三郎との個人としての交わりは終わった。間違いなく言えることは、その間、勘三郎が常に誠実で、正直で、嫌な思い出はひとつもなかったということである。私に何を求めていたのか。それは遂に知りようがないし、私との交友がどれだけの満足を与えることが出来たのか、それも知りようがない。また元より、私などよりはるかに深く、長い付き合いをした人も大勢あるだろう。しかし私のような立場の者と、「彼」のような立場の者が、こうした形で親交を持つことが出来たのは、私にとって得難い体験であり、忘れることがない思いでとなるであろうことは間違いない。貸しも、借りも、互いに一切ない付き合いだった。

いや、ただひとつ、借りが出来てしまった。初めに書いた、『十八代目中村勘三郎論』を書くという約束である。それに、せめても変わるものとして、この「随想」を書き始めたのだった。これからは、書き溜めてあったその草稿を読み返しながら、時に生かせるものは生かしつつ、「随想」という形で書き継いでゆこうと思う。つまり、いわばここまでが「第一章」。想を改めてまた続けます。(つづく)

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