随談第467回 いよいよ

いよいよ歌舞伎座が開場である。新しい劇場のオープンというのは少しも珍しいことではない時代だが、そういうものとはまるで比較にならない、というより、質の違うことのようである。別格的に大きな劇場の誕生というなら、国立劇場がそうだったし、その前に日生劇場があった。国立より一カ月先に帝劇が全く面目を変えて開場したのも見たし、改築新装オープンなら新橋演舞場や明治座の新開場も見た。こうして数えてみれば、結構多くの大劇場の開場を見てきたことになる。(改めてちょっとびっくりするほどだ。)しかし今度の歌舞伎座の場合は、それらのとはちょっと別次元のことのような気持になっている。

それだけ、歌舞伎座というものが、私の中で特別のものになっていたのだとしか言いようがない。いま稀有なことに立ち会っているのだ、という感覚は、国立劇場のときにもあったが、何と言ってもあのころは、まだ駆け出しの一介の見物でしかなかったから、どこか遠い話でもあった。60年前の四代目のときは、まだ視野の中に入らない子供だった。その、六〇年に一度のこと、という思いがそうさせるのか。

25日の報道関係者のための内覧会にも仲間入りさせてもらい、27日の開場式と28日の顔寄せ手打ち式にも出席したから、初日を前に、既に三回、中に足を踏み入れることができた。地下の広場(木挽町広場と呼ぶのだそうだ)はすでに3月初めに公開されたが、そこに足を踏み入れるのだって、予行演習さながらの昂揚があった。場外でありながら、歌舞伎座の一部であるという感じを味わうことが出来るという点、なかなか味なアイデアといえる。内覧会では、正規に開場してしまったらもう普通には見ることのできない、奈落だとか、楽屋その他、つまり幕内まで見せてもらった。もっとも楽屋の使い勝手のようなことは、実際に芝居が始まって、役者たちの日常がそこで営まれるようになってから、ああだこうだと言われ出すことに違いない。その意味で、われわれ見物にとっては、何と言っても劇場そのものであり、ロビーであり、が最大の関心事ということになる。

座席の幅が3センチ広くなっただの、前の席との間隔が6センチ広くなった(実際には、飛行機の座席の方式を取り入れたので、足元はプラス7センチの計13センチ広くなった計算なのだそうだ)といった情報は、既にいろいろなところでなされており、観客の側の使い勝手は、初日が開いてから、いろいろなところ、さまざまな形で言われ出すに違いない。三階席だけでなく、一幕見の席からも花道のスッポンが見えるようになった、ということはそれだけ、特に三階席が急勾配になったということで、一番てっぺんの席にも座ってみたが、昔の三階席のパノラマとはちょっと感じが違うような気がしないでもない。東側と西側の席が一列だけになったので、かつて私が、前売り開始日に並んでまで確保したりしたこともあった「三階東側Bの19ないし20」という席は、新しい歌舞伎座にはもはや存在しない。

そうした感傷に浸るなら、一幕見の席とロビーが立派になって、かつての、一種差別的ですらあったぼろっちさが微塵もなくなったことなどは、もちろん、もろ手を挙げて賛意を表すべきことには違いないが、つい、昔の話をイマドキノ若イモンに向かって始めたくなる向きもあるに違いない。エレベーターもついたから、あの階段を駆け上がる「愉楽」も味わうことはできなくなった。もちろん、階段を歩いて上ったっていいのだが、エレベーターがついてしまった以上、健康のための「善行」ではあり得ても、かつてのあの「被虐味」はもはや存在し得ない。もしかすると、一幕見席の「改善」は、現代の歌舞伎愛好者にもかすかに残っていた、昔の「悪所」の、とまではいわないが、五体満足な「いい若い者」や「いい歳をした男」が昼日中から歌舞伎などを見ていることへの「罪悪感」を覚えるよすがを、完全に払しょくすることになるかも知れない。

閑話休題。開業式が始まって、田中伝左衛門師による大太鼓の打ち初めにつづいて、幸四郎の翁、梅玉の千歳、菊五郎の三番叟という顔ぶれで『寿式三番叟』が始まると、音響の良さにまず感心する。設計者の最も苦心のあったところとも聞くが、席にもよるのかもしれないが、(私の席は、二階の下手寄りの最前列という、長唄囃子連中とはちょうど対角線上に位置していたから好条件であったには違いない)、これなら、もし歌右衛門が甦ってあのくねくねしたセリフを言っても、きっとよく聞き取れるに違いない。天井、左右の壁面、すべて前の通りである。座席の色合いも同じだが、強いて言えば、先に言ったように背もたれの具合が変った分、上から見下ろしたところ、景観にもちょっぴり変化が感じられないでもないし、一番違ったのは二階三階の東西の席の並び方だろうが、まずは昔通りという範囲内に納まっている。

むしろ、やや戸惑うのはロビーに出てからだろう。東側西側双方にエスカレーターがついたり、食堂や売店の位置や並び方が変ったり(三階のおでん食堂がない!)、何よりトイレットの在り処が変ったり、ベンチが背もたれのない式のになったり、といったことどもが、随所に、いろいろある。まあこれも、常識に従うなら、改善に伴う当然の変化という範囲内のことであろう。

顔寄せ式の折に紹介された、新しい歌舞伎座のできるまでを記録した『時の継承』という映像は素晴らしいものだった。記録映画として、見事な作品だと思う。公開して、多くの人に見てもらうようにすべきである。

さて、一日目の開場式、二日目の顔寄せ手打ち式、舞台全面にずらりと、紋付袴に威儀を正した役者たちが居並ぶ壮観は、四年前のさよなら公演第一月、三年前の最終月と同じものだが、あの時から既に、又五郎、富十郎、芝翫、雀右衛門、さらに勘三郎、團十郎の六人がいなくなっていることが、こうしてみると改めて胸に刺さる。三年という月日が、いかに長い時間であったことか。(三階のロビーの、以前と同じ場所の壁面に「物故名優の肖像写真」がもう飾ってある。そこに、もうこの六人も並んでいる!)あの時は、又五郎と雀右衛門は椅子に掛けていたが、あとの四人は三年後にまさかその姿がないなど、思ってもみなかったのだ。團十郎や勘三郎だけではない。富十郎は少しの老いすら見せていなかったし、芝翫は俳優協会会長として挨拶をして、三年後と言うべきところを何だかちょいとミスったりして、ご愛嬌を演じたりしたのだったっけ。往時茫々とはこのことである。

一日目には姿のなかった猿翁が、二日目の手打ち式には、ひとり、椅子に座っていた。思えばもう、姿を見なくなって十余年になる澤村藤十郎が、端然と座っている。なで肩の、いかにも女形らしい美しい姿だ。この人が元気だったら、とあらためて思わずにいられない。いちばん上手の端に田之助がいる。思えば、六十年前の前の歌舞伎座の開場の時、すでに舞台を踏んでいた人は、この中にどれだけいるのだろう。中には、この六十年の間に、舞台人生がそっくり納まってしまった人だって、少なくない筈だ。いかに日本人の平均寿命が長くなったとはいえ、六十年という歳月は短くない。

こうして、新しい歌舞伎座はすでに命が吹き込まれた。先代の勘三郎が、国立劇場の開場の折だったか、来賓たちの祝辞が、みなどの人のも、この真新しい舞台で云々と続く中で、よごれろよごれろ、と呟いていたとか聞いたことがある。そう、舞台は役者たちの足で踏まれ、よごれて、それが艶となって照り返ってこそ、価値を増すのだ。艶とは、いうなれば手垢のことだとは、『陰影礼賛』における谷崎純一郎の言である。

一日目の開場式の日はあいにくの氷雨で、折り畳みの傘だのコートだの、両手にあまるほど嵩張ったので、ついでに地下のコインロッカーの使い初めの意味合いも兼ねて、嵩張る物をロッカーに片づけて、さて式が終わって帰りがけ、ロッカーの前で鍵を回していると、係の女性から「お帽子をお忘れではいらっしゃいませんか」と声を掛けられた。アッと気が付いた。初めにロッカーを使ったときに、帽子を脱いでロッカーの上に乗せ、そのままうっかり忘れていたのだ。係の女性は、後でそれを知り、持ち主が帰りにロッカーを開けに来るのを待っていてくれたに違いない。その気遣いといい、応対のさりげなさといい、処理の仕方といい、見事なものだった。お蔭で助かった。しかも快く。上司の人で、もしこの文章が目に留まることがあったなら、そっと覚えておいてあげてください。

事始めにこんなささやかな失敗をするのも、こうして見事にカバーしてもらえたなら、きっと縁起がいいのではないかしらん。

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著者謹白。このブログを始めたのは2005年の4月でしたから、この4月朔日で、満8年ということなります。全くの偶然ながら、奇しくも八周年目を迎える前日の3月31日で、アクセス数が40万を数えることになりました。こういう数字をどう受け止めればよいのか、いつも考えるところですが、何かを語るものであることも確かでしょう。

たしか、はじめの1万に到達するのに十カ月かかったと覚えています。最近の10万はちょうど一年半でした。アクセス数が多ければ、悪い気はしないのは事実です。しかし、どういう内容の記事を書けばどういう数字が返ってくるかは、いまだに読み切れないところがあります。まあ、それが救いなのかもしれませんが。

ともあれ、お読みくださる方々に感謝いたします。これからもご愛読いただければ幸いです。

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