随談第469回 さまざまのさよなら

歌舞伎座の新旧交代に導かれるように、さまざまのさよならがこのところ続く。この前銀座シネパトスのことを書いたら、テアトル銀座も間もなくなるから銀座なにがしと名乗る映画館は銀座シネスイッチ一軒になると新聞に出ていた。言われて見ればその通り、というやつだ。

既に世間で誰もが話題にしているようなニュースをここで書いても仕様がないが、渋谷の東横線の地上ホームがなくなるニュースは、かつてここの改札を通って通学していた昔を思えば、やはり何がしかの感傷を覚えないわけには行かない。改装前の上野駅ほどではないにせよ、いかにも始発駅然としたあの構え自体が、大袈裟にいえば「アンナ・カレーニナ」のモスコー駅みたいで、いかにも旧時代風でいい。まだ戦前か戦中か、安岡章太郎が予科生で、日吉の校舎へ通っていた頃、東横線の改札口を通ろうとしたら、向こうから六代目菊五郎がやってくるのが見えた。ヤッと思って、だんだん近づいて来るのを見ていると、六代目ではなく小泉信三だった、とたしかどこかに書いていた筈だ。戦災に会って顔に大きな火傷が出来る前は、小泉自身、菊五郎ばりを自認していたというが、こういうのは、いかにも古き良きむかしの話らしくていい。始発駅ならではのあのプラットホームの並んだ風景があってこそ、成り立つ話である。以前は、小田急でも京王でも井の頭線でも、私鉄の始発駅はみんな、大なり小なり、ああいう形だったのだが、いまでは西武線の西武球場前駅が比較的昔をしのぶのにいいかもしれない。

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三国連太郎のこともすでに方々に書き溢れているが、別に良きファンであったわけでもないのに、やはり、ひとしなみのスターの訃報にはない、ある感慨を抱かされる。晩年の、というか近年の、というか、話題になったような作は、じつはいくらも見ていない。(この頃日本映画は見ないので、などキザなことを言う大人にはあるまいと、若い頃は思っていたものだが。もっとも『釣りバカ日記』は長距離バスに乗ると流してくれるので、いくつかは見ている。)

しかしそういうことに関わらず、映画俳優としてじつに見事な風格を持っていた人で、存在しているだけで見事なひとつの風(ふう)があって、それを、ただそこにいるだけで、ただものでないと思わされたのだから、たいしたものだ。「知」というものを感じさせた唯一の人、と言ってもいい。いわゆるインテリ俳優は他にいくらもいたが(いるが)、存在自体に知を感じさせた人は他にいない。まあ、あの声と、あの常にゆったりした話し方がそう感じさせる一因をなしているわけだが、なかなかよきものであった。俳優として、映画俳優以外の何ものでもなく、且つ、映画俳優として最もよく全うした人のように思う。戦争というものの影を常に感じさせたが、この人の出自も、戦争と並んで大きな影を落としていたに違いない。

はじめは、東大出だとばかり思っていた。当時の俳優名鑑に阪大出となっていたのを思い違えたのだが、じつは大学出などでなく、インテリ俳優として売るための映画会社の宣伝だったそうだが、だまされた人は少なくないだろう。『善魔』というデビュー作のイメージがそうだったからで、「悪魔」ならぬ「善魔」というデビュー作は、後から思えばなかなかこの俳優の存在をシンボリックに規定していたようにも見える。

その次に覚えているのは、昭和29年から翌年に掛けて三船敏郎が三部作で撮った『宮本武蔵』で、又八をやっていた。つまりこの又八は、武蔵よりも頭がよさそうなのだった。もっとも第一部を撮ったところで日活に移ってしまったので、この三船版武蔵映画では、又八は第二部以降は、代役がほんの辻褄合わせに出るだけで竜頭蛇尾に終わってしまう。当時のこの人は、映画の製作を再開した当時の日活の、裕次郎出現以前の路線がよく似合っていた。『警察日記』の若いお巡りさんとか、例の『ビルマの竪琴』の隊長なんぞは、(なぜか兵隊たちのコーラスが蛮声を張り上げたりせず、どこかの合唱団みたいにきれいにハモッているという絵空事とマッチして)ふつうなら気恥ずかしくて見ていられなくなりそうなところを納得させてしまう。裕次郎が出てきてあっという間にスターになって間もない『鷲と鷹』というのを、私は裕次郎映画の中で最も愛好するのだが(先日、久しぶりに日本映画チャンネルでめぐり合った!)、親の仇を討つために輸送船に紛れ込んだ裕次郎を追って船員になりすましている刑事の役をやって、嵐の中で格闘する場面で、裕次郎より筋骨たくましいのを知った。

私個人の思いとしては、この頃の三国が何ともなつかしいが、そのなつかしさとは、単に遠い過去のノスタルジー故ではなく、三国連太郎という存在そのものが持っているものだったのだ。そのことを、いま改めて思う。

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もうひとりの、私にとってはなつかしい人の訃報があった。元巨人の投手大友工である。全盛期は短く、名声は別所の陰に隠されがちだったが、ある一定の時期に範囲を特定すれば、数字の上の戦績だけでなく、読売巨人軍というチームへの貢献度からいっても、別所に決して劣るものではない。しかしイメージからいっても、軟式野球出身という経歴通り、といっても決して悪い意味ではなく、何となくプロ選手らしくない、というか、アマチュアの匂いがあった。それで損をしている面も否定できないかも知れないが、もし、プロ野球史上ユニークな選手の十傑か二十傑かを選ぶなら、当然入って然るべき人だろう。

これは訃報ではないが、もう一人、なつかしいという意味で、往年の野口次郎のことを記事にした新聞があったが、折角、名投手にして好打者の二刀流の元祖として紹介しておきながら、書いた記者は資料を慌てて調べたらしく、野口がかなり長いこと、連続試合安打の日本記録のタイトルホールダーであったことに触れていなかったのは手落ちであろう。

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