随談第470回 勘三郎随想(その7)

断続的に続けると約束して始めた「勘三郎随想」が、どうも間遠になりがちである。勘三郎と生前に交わした約束を果たすという趣意からも、これから少し集中的に掲載するようにしたい。既に五年前になる、一度書いた「勘三郎論」の草稿を、勘三郎亡き今の目で読み返し、書き直し書き加えながら進めて行くことにしよう。このブログを通じて行なう限り掲載が断続的になるのは致し方ないが、できるだけ集中的に続けたい。

草稿は、『勘三郎48章』と題していろは48文字に章を立てたのだった。そこでまず

1.「い」の章

では、勘三郎襲名の時のことから、話の口を切ることにしよう。

いままで、幾人の襲名披露の舞台を見てきただろうか。しかし、その初舞台間もないころから見つづけてきた役者の襲名に立ち会うのは、また格別の思いがあった。

つくづくそれを思ったのは、新しい世紀に変わったその正月に行われた三津五郎の襲名のときだった。私が自前で歌舞伎を見るようになったちょうどそのころ、名子役として脚光を浴びていたのが、三津五郎の八十助であり、勘三郎の勘九郎だった。つまり彼らの舞台人としての人生は、私が歌舞伎を見つづけてきた歳月と、ほぼイコールの長さだということになる。格別の情の湧くのは、えこひいきなどということとはまったく別な、自然な感情である。

私の場合、彼らとの歳の差は、親子ではもちろんなく、兄弟でもなく、年若の叔父と甥の差にむしろ当る。叔父といっても、まだ半人前の中高生であったりする。ひよこが自分のくちばしで殻をつついて破って卵からかえるように、自己完結していた「こども」の世界が壊れて、広い世界が目の前に広がる。そこに見えたものが格別な新鮮さ、珍しさで心象に焼きつけられる。私の場合は、歌舞伎体験のほぼはじめから、そこに勘九郎がい、八十助がいたことになる。

私とおおよそ同年齢の歌舞伎俳優といえば現二代目猿翁と現幸四郎だが、私がその存在を知ったとき、彼らは市川団子、市川染五郎の名で、すでに華やかな少年スターとしてまばゆい光につつまれた姿で私の前にいた。もちろん、彼らの当時の姿もそれはそれとして、格別の懐かしさを持っているから、あの「団子」の記憶を背負っているあの「猿之助」を、いまになって「猿翁」と呼ぶのは、はっきりいえばいまだに抵抗感がある。しかし私の前に現れた最初から、彼らが既にスターであったという距離感が、親密な感情を抱くにはある作用をしていることも、また事実である。

それに比べると、年若の叔父がまがりなりにも年長者として接する、いま目の前にいる甥というのは、また格別な「愛」の対象となりうるものだ。君の幼い姿をぼくは知っているんだよ、といった親しみである。勘三郎にせよ三津五郎にせよ、五十余歳という年輪をまぎれもなく刻んだその顔が、ふと、にこりとするその笑顔の中に、そのころと変わらぬ幼な顔をいまも宿していることについ敏感に気づいてしまうとき、他の役者たちの場合にはないある親密さを、そこに覚える自分があることは否定しようがない。

もとよりそれは、私の一方的な思いであって、当の彼らの知らないことだが、その親密さとは、もっと適切にいうなら、一種の共犯意識に近いともいえる。いうなれば、舞台の上と観客席の違いはあっても、そこで演じられる劇場という空間と時間を共にした共犯意識である。それから五十余年、じつは何度か「劇場から足が遠ざかった」時期をはさみながらも、彼らの役者人生とほぼ重なる観劇の歳月を経て、私は私にとっての「十八代目勘三郎襲名」の日を迎えたのだった。

五代目中村勘九郎が十八代目中村勘三郎に生まれ変わる襲名興行は、地方公演も含め一年十ヵ月という長期間に及んだが(春三月から翌年十二月までというのは、史実の忠臣蔵事件の刃傷から討入りまでと奇しくも同じタイムスパンである!)、その事始めとして、平成十七年の三月から五月にかけ、歌舞伎座で三カ月にわたっておこなわれた、その三カ月目の演目のひとつが「芝居前」だった。

「芝居前」というのは通称で、舞台全面に昔の芝居小屋の正面を模した大道具を飾り、めでたい興行の初日を迎えた賑わいの模様を見せるという趣向の一幕である。歌舞伎座でいえば正面玄関前に当たるむかしの中村座の木戸前に、座元とその後継者である若太夫が、一座の役者たちや座方、茶屋の若い者や芸者衆などを従えて並び、芝居茶屋の亭主だの女将だの町名主だのと挨拶をかわしているところへ、本花道から男伊達と呼ばれる達師(たてし)の連中、仮花道から女伊達の連中が登場して、座の繁栄を祝うめでたい言葉で言祝ぐ(ことほ)というのが、定式になっている。

これらの人物にはそれぞれ役名がついており、当代の第一線の俳優たちが扮するのだから、芝居といえば芝居だが、しかしその役名というのが、たとえば男伊達連中の先頭に立つ尾上菊五郎の役は「音羽の秀五郎」、女伊達の先頭の坂東玉三郎のは「高輪(たかなわ)お玉」であったりする。音羽というのは菊五郎の屋号の音羽屋から、秀五郎というのは本名の寺嶋秀幸からとったのであり、玉三郎は高輪に住んでいるから高輪お玉というような、ほんの洒落であって、男伊達の音羽の秀五郎も女伊達の高輪お玉も、じつは菊五郎であり玉三郎であることを見え見えにした上に成り立っているかりそめの役にすぎない。芝居の形をとったセレモニーである。

ふつう襲名とか追善といった大がかりな興行の場合、「口上」という一幕を演目のひとつとして見せるのが今日での通例で、現に勘三郎の場合も、三月と四月の公演では「十八代目中村勘三郎襲名披露口上」というタイトルの一幕が用意され、その月の興行に出演する幹部俳優たちが舞台に居並んで、新しい勘三郎のためにこもごも祝辞を述べた。舞台と客席、役者と観客の間の虚と実の間に成り立つ歌舞伎ならではのセレモニーだが、ここでも、口上を述べる役者たちは、それぞれ中村雀右衛門であったり片岡仁左衛門であったりしながら、それぞれの家にゆかりの裃袴に、化粧をし髷をつけ、女形は紫の帽子をつけるという、江戸の末ごろの役者の礼装と思われる姿に扮装している。つまりこれもかりそめの姿なわけだが、しかし役名はない。その分、虚より実の要素が強いが、素顔の彼らとは微妙な一線が引かれてもいる。

ごく稀にだが、扮装をせずまったくの素顔のままで口上をいう例もないわけではない。その場合は、紋付に袴という現代の役者の礼装だから、虚の要素はまったくないことになる。そういう形の口上で私の覚えているのは、十一代目市川團十郎・八代目松本幸四郎(松本白鸚)・二代目尾上松緑のいわゆる「高麗屋三兄弟」が、彼らの父親である七代目松本幸四郎の十七回忌の追善の口上をしたときである。明治風のハイカラだった亡父の「近代性」をこうした形であらわしたのかも知れない。その数年前、センセーショナルな話題をふりまいて東宝に移籍していた幸四郎が、追善という特別の事例にひさしぶりに歌舞伎座の舞台を踏み、三兄弟がそろうという待望久しい光景に場内は沸きはしたものの、馴染みの口上の姿でずらりと並ぶ壮観を期待した目には、ちょっと肩透かしを食らったような気がしたものだ。「虚」と「実」の配分が、「実」の方に大きく傾いた分、「歌舞伎らしく」ないと感じたのである。このほどの五代目歌舞伎座の開場に当って、銀座通りをパレードなりお練りなりをするのは素顔に紋付き袴が似つかわしいが、その後で、今度は舞台の上に居並んで開場を祝い、手を締めるのには、髷をつけ、裃袴に意義を正してこそふさわしい。

思えばあの口上の裃姿は、現代という時代にあって歌舞伎を成立させている、微妙な一線をシンボライズしているかに見える。

「口上」にしても「芝居前」にしても、セレモニーでもありながら、同時にひとつの独立した演目でもあるという、考えてみれば不思議な儀式なのだが、新勘三郎の三ヵ月におよぶ襲名興行で、はじめのふた月は通例通り「口上」だったのを、三カ月目だけ「芝居前」にしたのは、ひとつには気を変える意味でもあったろうが、もうひとつ、いまでは誰しも気がついているように、それは中村勘三郎という名前そのものと深く結びついていた。

勘三郎がまだ二十歳だった昭和五十一年四月の歌舞伎座で「芝居前」が出たときは、「初代猿若中村勘三郎三百五十年記念」というタイトルがついていた。このときの主人役は、父である十七代目勘三郎だったが、こんなに代数が大きい名前は、当時まだもちろん健在だった市村羽左衛門がやはり十七代目だったのを除けば、他にはない。勘三郎という名前は、歌舞伎役者のなかで最も古い、江戸歌舞伎の開祖とされる名前であって、「初代勘三郎三百五十年記念」というのは、それから三五〇年前の寛永元年という年に、初代の勘三郎が幕府の許可を得て江戸の日本橋に中村座という劇場を開いた、それを記念する興行だったのだ。(寛永といえば、時の将軍は三代将軍家光である。)

つまり中村勘三郎という名前は、市村羽左衛門の市村座、守田勘弥の守田座に先立つ,幕府公認の江戸三座の中でも最も由緒のある中村座の座主の名跡であって、第二次大戦後の一九五〇年に十七代目を襲名したのは、本来の中村勘三郎家の血筋がすでに絶えていたのを、はじめて役者名として継いだのだった。だから、座主すなわち太夫元(たゆうもと)は、役者とは別格の、「旦那」と呼ばれる特別な名前であるという考え方が、古い世代の役者の間には当然のこととしてあったらしい。口上の幕を取り仕切った長兄の初代中村吉右衛門が、客席に向かって挨拶をすませた後、実弟である新勘三郎の方へわざわざ向き直って、「いいかい、お前は中村宗家の名前をゆずられたのだから名をけがさないようにしなければいけないよ」と諄々と諭したというひとつ話が残っている。二十歳以上も、親子ほどにも歳の離れた末弟とはいえ、このとき既に四十歳の人間へ向かって観客の前でこういう訓諭を垂れたのは、謹厳で篤実な吉右衛門らしい老婆心のあらわれとして笑い話の種となったが、同時に、吉右衛門のような旧世代人にとっては、勘三郎という名前が、江戸三座筆頭の宗家の名跡として格別なものと受けとめられていた、何よりの証しともいえる。

その十七代目の襲名のときにも、「口上」とならんで「中村座芝居前」も出たらしいが、さて話を十八代目襲名の時に戻すと、大夫元役の父十七代目の脇に控えて若大夫の役をつとめた二十歳の折の「初代勘三郎三百五十年記念」からさらに三十年という月日がたって、勘三郎は五十歳を迎えようとしていた。その三十年の間に勘三郎はじつにいろいろなことをしたが、その中で、ざっとここ百年の歌舞伎の歴史の中でも誰もやったことのないことを実現している。言うまでもない。平成中村座、という自分の名のついた劇場を作ってしまったことである。

中村という姓を名乗る歌舞伎俳優は大勢いるが、中村座の座元といえば中村勘三郎以外にはない。筋書の配役表の役名は、中村座座元というだけだが、当然、中村勘三郎であるはずだ。平成中村座を作った当人が、十八代目勘三郎を襲名する歌舞伎座の舞台で、初代勘三郎が作り代々の勘三郎たちが守り伝えてきた中村座の木戸前で「芝居前」をつとめている。勘三郎が勘三郎を演じている。襲名というものが、当の本人だけの祝い事ではなく、その名前を名乗った十八人の勘三郎たちが、ひとりひとりは別人でありながら、「勘三郎」というひとつの有機体でもあることを、身を以って立証して見せているかのようでもある。

平成中村座を作ったといっても、もちろん、先祖の代々の勘三郎たちと違って、勘三郎は座主になったわけではない。勘三郎といえども松竹という興行会社の傘の下にある一俳優にすぎないし、平成中村座を作ったといっても、自前で建設したわけではない。とはいえ、一俳優の側から働きかけて、自分の名前にゆかりのある座名のついた劇場を作るなどということは、勘三郎以外の誰が考えただろう。その発想に、まず驚く。

四国の金比羅にある金丸座で歌舞伎の公演が行なわれるようになった契機にも、吉右衛門、澤村藤十郎とともに勘三郎も関わっているが、金丸座が平成中村座を作ろうというアイデアにつながる契機であったとしても、久しく使われていなかった芝居小屋を復興するのと、まったく新規に作ろうと考えるのとでは、発想に何段もの飛躍がなければならない。その発想の飛躍の中に、勘三郎の現在があったということだろう。

初代の勘三郎が将軍家光の時代に最初の中村座を建てたのとはずいぶんと違うにせよ、ともあれ勘三郎は、自身のアイデアを実現させて平成中村座を作った。勘三郎の発想と働きかけがなかったら、誰も考えもしなかったという意味で、平成中村座は、勘三郎みずからの力で作ったのである。その勘三郎が、歌舞伎座の舞台の上で、「芝居前」の中村座の座元中村勘三郎をつとめる。「口上」の形式では表せない、勘三郎の仕掛けた自負とユーモアをそこに感じ取らないわけには行かない。こればかりは、父の十七代目もなし遂げなかったことである。

平成中村座こそは、それを実現した勘三郎の人気と実力の反映であり、発想の自在さとそれを使いこなす実行力の反映でもあるという意味で、いまこの時の勘三郎の存在そのものを表徴するものといえた。

2.「ろ」の章 (談話:平成中村座のこと)

2008年の1月、歌舞伎座の隣の文明堂がまだ元の店舗だった頃の二階席の一隅で、私は『勘三郎論』のために談話を取る約束で話を聞いた。勘三郎は慌ただしいさなかの時間を割いて、さまざまなことを快く語ってくれた。若干の遅刻の分を取り戻すために、予定の時間を過ぎるのを厭わず、応じてくれた。これから処々にはさみ込まれる勘三郎自身の談話は、その折のものである。

       *

――平成中村座を思い立ったのは、やっぱり金丸座だね。あれを見ちゃったということね。あの立ち上げにも関わったし。とにかくとてもいい小屋だったということ。でも、あそこまで毎回見に行くのは大変でしょ。で、あれが東京にあったらなと。東京にあるというよりも、移動式のものがあったらな、ということを思ったわけです。あの空間を、どこにでももって行くことができるということですね。あの金丸座の空間と出合ったことから、どうしても中村座というものを作りたくなったということになるんですね。

―――それともうひとつは、せっかく勘三郎という名前を継ぐことの意味ですね。中村勘三郎という名前をご縁があってうちの父がいただいたわけですから、その中村勘三郎というのは何だろうと考えると、座元なわけですからね。そういう理屈をつけても、ぼくの生まれてきた使命というとおこがましいけれども、そんなことをやらせていただいてもいいんじゃないかなというのがありますね。これが、こういう家の名前でなかったら、ここまで考えなかったでしょうね。

だからそういう意味からいっても、襲名というものは大きい意味をもっていましたね。金丸座をやらしてもらった当時は、まだ親父が生きていましたから、漠然と、こういう小屋が東京にあったらいいなというようなことでしたけど。

―――それから私自身の問題もありますね。再来年がうちの親父の二十三回忌なんですよ。うちの親父が死んで、約二十年。ぼくにとって激動の二十年といいますかね。あっという間でもありね、いろんな意味でこの二十年は濃かったですよ。子供も大きくなってくる。いろんなこともやった。そうなってくると、思いも強くなってきますね。そんなことがありますんでね。やっぱり名前ということは、大きかったかもしれないね。大体、三十歳から五十歳、自分にとってのいろんな意味での基礎を作った二十年ですからね。

――それにしても移動式ということは,よく考えたなと思うんだけど、どういうところから考えたんですか?

―――どこへでも持って行けるということ。じっさいニューヨークまで行けましたからね。来年は名古屋、北海道もある九州へも・・というふうにして、それでまあ、本拠がいつも浅草にあるという風にして、ということになると、ひとつの夢になりますわね。

――折り畳み式のテントということについては、やっぱり唐十郎さんのテント劇場というのは関係ありますか?

―――ええ、それはあります。それはあるし、また空間というもの、空き地があればどこででもやるという発想はあります。不自由な空間ではありますけれども、大きさとしては非常に面白いんでね。

今度も、『忠臣蔵』の通しをやるんですよ。ふつうの通しをやる日と、本蔵編で通す日とか、いろいろ実験ができるんでね。松島屋(=片岡仁左衛門)が出てくれるっていうから、本蔵と由良之助をやってもらってね。やり方は、まったく普通の、歌舞伎座でやるのとおんなじでやります。だけど本蔵編だと、「松の間」で判官を抱きとめるところから何から全部仁左衛門の兄貴がやる。「進物」も「松切り」も。そのときは私が戸無瀬をやる。で、そのときは判官とかは若手になったりするんですよ。まあ、キャスティングのことはこれから考えるんですけどね。

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