随談第471回 勘三郎随想(その8)

3.「は」の章

平成中村座を実現する、ということを勘三郎みずから大勢の観衆の前で公言したのは、二〇〇〇年八月末、日本俳優協会の主催する演劇人祭が歌舞伎座で開かれたときだった。いろいろな番組のひとつとして舞台上でおこなわれた座談会の席上だったと思う。ふつうなら、後日記者会見かなにかを催して発表するところなのを、もう言ってしまいたくて我慢できないという風に見えた。その率直さがいかにも勘三郎らしくもあった。

いまでは誰でも知っていることだが、平成中村座は移動式劇場である。組立て式のプレハブ構造で、適当なスペースがあればどこにでも建てられ、畳んでしまえば倉庫に保管する。事実、第一回の公演は隅田川のほとりに建てて行ない、つぎには大阪の扇町公園に移動し、遂にはニューヨークへ運んでリンカーンセンターの前に出現させ、はじめに戻って隅田河畔で七ヵ月のロングラン公演を成功させたのが、奇しくも生涯最後の本興行の舞台となった。

いまとなっては、平成中村座を最後の舞台であったことは本望であったろうと思う他はないが、移動式劇場などという発想は、たしかに、父親たち前代の役者たちには考えも及ばないことだったろう。そこに時代の寵児としての勘三郎があるのも事実だが、その発想自体が時代の風を捉えていたのは、ひとつには勘三郎自身の感性の感度のよさであり、もうひとつには、時代の方からこちらに風向きを変えてきたという、巡り合わせの幸運でもあったろう。もう十年、二十年早く勘三郎が生まれていたら、仮に発想はあったとしても、実現は不可能であったかもしれない。

勘三郎自身がいろいろな機会に語っているのでよく知られているように、発想の原点は、まだ十代のころに見た、唐十郎らのテント劇場にあった。一九七〇年代にもっとも盛り上がった新しい演劇の動きは、直接的には在来の新劇が自己充足に陥っていたことへのプロテストだったと私は考えているが、しかしそこから始まった流れは、当事者たちがそこまで考えていたかどうかとは別に、思いがけないところにまで波及していった。

そういえばその頃、雀右衛門がつかこうへいの芝居を見に行ってショックを受けた、と語っていたのを思い出す。雀右衛門は特別だとしても、何かただならぬものをそこに感じ取ったからこそ、どんなものか覗いてみる興味をそそられたのに違いない。七〇年代こそ時代の潮目だったという考え方がある。そうだとすれば、勘三郎の今日の活動の淵源もそこにあることになる。

勘三郎がテント劇場に触発されたのは、きわめて単純明快な理由である。演じる者と見る者とがひとつの空間を共有する、そのことが生み出す熱気と活気に、勘三郎は歌舞伎の根源を感じ取った。これが歌舞伎だと思った、と勘三郎は言う。

そのことを話すと、父の十七代目が、アカの芝居なんか見るなと言ったというのは、むしろちょっといい話と考えるべきだろう。十七代目の生きた芝居の世界には、唐十郎もつかこうへいも存在しない。古い役者気質の無知や認識不足を指摘するより、こうした無邪気な無知にこそ、十七代目という明治四十二年生まれの役者の面目が躍如としていることに目を向けるべきだろう。十八代目より三十数歳も年長だが常に精神の若さを失わない雀右衛門が、常に意識的であったのと対照的ともいえる。

明治生まれの役者だから無知なのではない。明治といっても十七代目の生まれた四十年代はすでに二〇世紀であって、十七代目といえども近代人である。それにもかかわらず、テント劇場と聞いてアカの芝居と考えるような無邪気な時代錯誤の中に、十七代目という役者の本質があった。そうして、そういう無邪気さは、じつは十八代目の中にも受けつがれていて、その矛盾にこそ、父子二代を貫く勘三郎の芸の根源がある。

いうまでもないが、この場合、「無知」というのはもちろん悪口ではなく、無教養の意味でもない。どんな場合にも、割り切れてしまわない何か。計算や理屈で片づかない何か、といおうか。「知」だけで終わらない何か。

愛嬌と色気、それに才気と稚気。

十七代目との比較論はあとでゆっくりやることにして、いま差し当って、この父と子に重なり合う最も根本のものをいうなら、この四つの言葉に集約されるだろう。

はじめのふたつは今は措こう。才気というと、とかく理詰めで割り切れるものを指して言いがちだが、十七代、十八代ともに、その才気のあらわれ方はそうしたものとは違う。もちろん時代の差はあって、十八代目はテント劇場をアカの芝居などと言ったりはしないが、唐十郎を見てこれが歌舞伎だと直感する、その感性の中では、言葉でそう表現しただけではないさまざまなものまで、同時につかんでいる。

十七代目は、戦後歌舞伎を背負って立った同時代のビッグたちの中で、誰よりも、観客と近い距離にいる役者だった。観客を気にする役者だったと言い換えても、ほぼ同じ意味になる。いま目の前にいる観客の心を掴むか掴み損なうか、極論すれば、その虚と実の皮膜の間に、十七代目の芸の命はかかっていた。型の定まった古典を演じていても、そのことに変わりはない。おのずから、その芸はヴィヴィッドになる、いや、ならざるを得ない。愛嬌も色気も、そうした、はらはらするような観客との関係の中で磨かれる。十七代目の才気というのは、そういう意味である。

そういう芸は、悪くすると、人の気を取る芸として嫌われる。時として、古典の格を崩すことにもつながりかねない。事実、十七代目には時にその弊が感じられないでもなかった。芝居を投げるという評につながる一面でもある。

だが同時に、同時代の大家たちの中で、十七代目勘三郎ほど、生動感を感じさせる役者はなかった。法界坊にせよ髪結新三にせよ、その魅力は、芝居自体の面白さの中で、法界坊なり新三なりが、十七代目という役者の身体を纏って立ち現われる生動感にあった。

>十七代目は観客を笑わせたりすることもうまかったが、その面白さの本当の理由は、いまそこにその人物が生きて動いているという、生動感が呼び起こす共感にあった。いわば、十七代目と観客は共犯関係になる。共犯関係がうまく成立したときこそが、おそらく十七代目の法悦であったろう。「稚気」といったのはそこである。そこから生まれる親密な感覚こそが、十七代目勘三郎にあってほかの大家たちにないものだった。歌舞伎じゃないみたい、とは十七代目の舞台を見た初心の客が洩らす驚きだった。

歌舞伎じゃないみたい? だが一方からいうなら、同時代の大家たちの中で、十七代目勘三郎ほど、濃厚な歌舞伎味を感じさせる役者もなかった。古い役者の体質を、誰よりも濃厚に感じさせたのも、十七代目だった。戦後ひところ、どころか昭和四十年過ぎまで、マスコミは歌舞伎を「カブキ」と片仮名表記をしていたし、「役者」という言い方を当の「俳優」たちの前でするのをはばかるような雰囲気もあった。口上でも、後輩を引き立てる先輩の役者が「どうかひとかどの俳優となられますよう」御指導ご鞭撻をお願い申し上げますというのが普通で、「ひとかどの役者」とは言わなかったように記憶する。そういう時代だったのだ。
その中で、十七代目勘三郎は、俳優という言葉よりも役者という表現でないと収まりきらない何ものかを最も多く持っている存在だった。その理由、その根拠を突き詰めるなら、「稚気」というところに行き着く。

「役者子供」という言葉がある。「役者馬鹿」という言葉もある。ひとつ間違えれば、どちらも、差別語になりかねない言葉である。だがこの言葉を、そうしたマイナスイメージだけでしか受けとめられないなら、この表現をもってしか言い尽くせない豊かなものを失うことになる。十七代目が、同時代に歌舞伎を背負っていた立者たちの中で、こうした言葉に誰よりも似つかわしい存在であったことは、多分誰も異論がないだろう。

十八代目もまた、その点で父と資質をまったくひとつにしている。テント劇場の役者と観客の一体感を歌舞伎の本質と直感したのは、たぶん、ではなく、間違いなく、その点に誰よりも敏感であったからに他ならない。

反新劇としてのテント劇場に、歌舞伎の根源へ遡及する意識がはじめからあったのは間違いない。はじめはアカデミズムの中で言われ出した、歌舞伎の語源が「かぶく」にあるということが現実の演劇の状況を撃つための意味を担ってしきりに言われるようになったのも、この頃である。だから、テント劇場に歌舞伎を見るということ自体は、別にめずらしい発見ではない。

だがそのことと、実際に「歌舞伎のテント劇場」を作ろうと考えるということの間には、常識では掛け渡すことのできない距離がある。それはほとんど無謀に近い。普通の意味の「才気」の持主なら、そんなことは考えもしない。だが十八代目の才気とは、一旦こうと思ったら矢も楯もたまらないという「稚気」に裏打ちされている。そこが、十七代目とも共通する。

ともあれ十八代目は、その二十歳のときにテント劇場で抱いた思いを胸のうちにたぎらせつつ、ざっと三十年の時を待った。もちろん空しく時を過ごしたのではない。それを実行に移すまでにそれだけの歳月が必要だった、ということである。同時に考えるべきは、その思いを三十年間、守り続けた持続力だろう。「稚気」だけでは、三十年もの持続力は生まれない。

中村勘九郎の名は、その間に歌舞伎俳優として最も世間に知られた名前のひとつになった。勘九郎の名を高めてゆく過程は、とりも直さず、その思いの実現へ向けての足場を築く過程であったともいえる。二十歳であった勘九郎は、五十歳を迎えようとしていた。十八代目襲名は、こうしたタイミングのなかで行なわれたのだった。

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