随談第472回 勘三郎随想(その9)

4.「に」の章

十八代目勘三郎襲名の公演は、二〇〇五年三月から五月まで三ヵ月にわたる東京歌舞伎座での披露からはじまって、二〇〇六年十二月、京都南座の顔見世を兼ねての興行まで二年がかりでおこなわれ、勘三郎は幾つもの役を演じたが、その中で、勘三郎の現在(いま)を語る上でひと役を挙げるとすれば髪結新三だったと私は考える。

それは、舞台成果として出来がいちばんよかったというだけではない。新三という役に勘三郎の現在の在り方が集約的にあらわれていると思うからである。

おそらく新三は、勘三郎にとって格別の思いのある役である。父十七代目にとっても当り役であり、すでに言い尽くされていることだが、十八代目にとっては、初役でつとめている公演中に父を亡くしたという因縁の役でもある。そうしてさらに、今から思えば勘三郎の最後の舞台となった平成二十四年五月の平成中村座でも、昼の部は初役の『め組の喧嘩』の辰五郎だったが、夜の部では新三をつとめたのだった。もうこの頃には、ゆるぎのない持ち役として安定感が印象的になっていたのだったが、文字通り最後の役となった。

だが私が勘三郎を語るのに新三を挙げるのは、単に当り役だからというだけの意味ではない。父十七代目を語る上でも、子の十八代目を論じる上でも、格好の役だからである。新三という役の上で、父と子は重なり合い、また喰い違う。これほど、父と子の類似と相違が端的にあらわれた役もない。同時に、若き日からその後の、十八代目の有り様を考えるのにこの役ほどふさわしい役もない。

『髪結新三』は河竹黙阿弥が、江戸がすでに過去となった明治になってから書いた世話狂言の秀作であり、以来、五代目・六代目の尾上菊五郎、戦後は二代目尾上松緑、十七代目勘三郎、現在では勘三郎のほかにも七代目菊五郎と、常に絶えることなく時代時代の新三役者を生み出しながら、人気狂言として親しまれてきた。それだけに、それぞれの時代と新三役者との関係が、明治から現代までの歌舞伎の変容を反映してもいる。十八代目勘三郎の新三は、その最も現在地に立っている新三だということになる。

新三という男は、その通称のとおり髪結いを職としているが、同時にやくざ者である。左腕、正確にいえば左肘の下に、前科者である証拠の入れ墨を刺されている。おとなしく振舞っていれば入れ墨は着物の袖に隠れているが、すこし粗暴な動作をすれば袖がまくれ上がって前科者であることを人に知られてしまう。新三も、普段はおとなしく廻りの髪結いとして、調髪に必要な小道具を収めた道具箱をさげて得意先を廻って歩く床屋稼業をしている。いうなら、江戸の理髪師である。

現代では、理髪業といえばみな店舗を構えているが、むかしは、新三のように床屋の出前をして歩く稼業があったのだということを、芝居好きは、この狂言によって知っている。そういう、市井の風俗に対する興味のようなことも、この種の世話狂言を見る楽しみのうちに含まれている。それは、単に物知りとしての興味というより、根底にあるのは、人が生きる姿というものへの関心であり、共感といった方が適切だろう。北京に行けばいまでも街頭に床屋が腰かけひとつの店を張っているが、あれだって、旅で珍しいものを見る面白さであると同時に、人の生きる姿への共感があればこその興趣だろう。とりわけこの芝居は、ほととぎすが鳴いたり、天秤棒をかついで魚屋が売りに来た初鰹を買って喰ったり、初夏の江戸の市井の風物が、郷愁を誘うように舞台の上に点描されている。作者の黙阿弥がこの芝居を書いたのは、江戸がもう過去の夢になった明治六年である。いうまでもなく「髪結新三」とは主人公の役名からくる通称で、本名題は『梅雨(つゆ)小袖(こそで)昔(むかし)八丈(はちじょう)』というが、この外題からは、江戸がつい昨日のことでありながらもはや永遠に帰ることがない過去となってしまったことへの、作者の、ひいてはそれを見る観客の、そこはかとない詠嘆がかすかに聞こえてくる。黙阿弥を江戸の劇詩人といったのは、はるか大正の昔の木下杢太郎だが、黙阿弥をもし詩人だとするなら、江戸の理髪師を主人公にしたこの狂言の外題ほど、詩を感じさせるタイトルはない。

新三は、得意先である材木屋の白子屋の手代の忠七という男が、店のひとり娘のお熊といい仲になっていることを知る。だがお熊には縁談が持ち上がっている。白子屋の経営が傾き、未亡人として女手で店を支えているお熊の母親にとっては、経営人として隆盛の人物を娘婿に願うのは当然のことといわねばならない。

そういう切羽詰った状況にいる忠七に、新三は駆け落ちをそそのかす。セヴィリアの理髪師のフィガロはアルマヴィーヴァ伯爵のためにロジーナとの仲をとりもつ気のいい男だが、江戸の理髪師たる新三は、気のいい男の外貌の下にもう一つの貌を持っていて、おためごかしに仲立ち役を買って出る風にもちかけて連れ出し、途中永代橋で、本性をあらわして忠七を心身ともに叩きのめす。お熊はすでに、子分の勝(かつ)奴(やっこ)に命じて、駕籠で川向こうの深川にある自分の長屋に連れ込んである。この永代橋の場が前半の見どころとなる。

それまで腰の低い、愛想のいい男と見えていた新三が、がらりと一転してならず者の本性を見せるわけだが、しかし何故この場が人気のある名場面とされているのかといえば、小粋でいなせな新三の小悪党ぶりに、痛快なエクスタシイを感じて観客が溜飲をさげるからである。前にも言った通りこの芝居の本当の外題は『梅雨小袖昔八丈』というが、このときも激しい夕立があった後、まだぽろつく雨の残っている永代橋のたもとで雨傘で忠七を打ち据え、足蹴にする。広重描く永代橋雨中図さながらの、梅雨どきの江戸の匂いが、実際の江戸など知るはずもない現代の観客にも共感される。しかし実は、それもまた、新三を演じる役者の腕と風情が生み出すものでもある。別の言い方をすれば、新三役者の個性や芸風が、この場に至ってくっきりと現われる。

演じ方としては、大正から昭和にかけて六代目菊五郎が完成した同じやり方に従いながら、二代目松緑と十七代目勘三郎とでは、愛想のいい髪結い職人の下に隠していた無宿者の本性が違っていた。松緑のはすっきりと男っぽい、あくまでも江戸前の職人だったが、十七代勘三郎のは、同じ江戸の職人でも、暗く屈折した、得体の知れない過去を持つ男の影がどんよりと現われていた。さて十八代目の新三は、争われない父の影を引きながらも、陰から陽へとのし上がろうとする者の気負いが印象的である。その代わり、父の屈折した翳りはない。あったとしても、ずっと淡い。

しかし、この新三という役のひと筋縄でいかない役である所以は、その後にある。

新三にまんまとはめられたと知って、大川(と昔の江戸人は隅田川のこのあたりの流域のことを呼んだ)に身を投げようとする忠七を、弥太五郎源七という男が救う。弥太五郎という名と源七という名と、二つ名前を持っているのでこの通称で通っているのだが、二つ名があるというのは、つまり堅気ではない証拠で、この界隈ではかなり幅の利く地回りの、他人からは親分と呼ばれている男である。

この弥太五郎源七が白子屋から事情を聞いて、示談の調停役を引き受ける。新三に掛け合ってお熊を取り返そうというのだが、新三に渡す示談金は十両でいいという。十両という金額が現代なら幾らになるかという考証よりも、俺が口を利けば十両で話がつくと新三を軽く見ている、この親分と世間から奉られている男のうぬぼれから来る脇の甘さが、やり取りの中でおのずからわかるように、作者は書いている。自分ではまだ壮年のつもりだが、大人の分別というものを、このやくざ者は有難がる齢になっている。この辺の書き方に、黙阿弥の人間観察が練達の筆に鮮やかに浮かび上がる。

大人の分別を知る源七は、自分から見れば青二才の新三を相手に大人げなく切った張ったをする気はない。貫録で新三を恐れ入らせるつもりである。だが新三は、廻りの髪結いで終わるつもりはなく、ばくち打ちとしていっぱしのところへのし上がる気でいる。そのためには目の上の瘤である源七の鼻を明かし、世間をアッと言わせるのが一番効果があるのを知っている。すでにひと晩、お熊の体をなぐさんだ上、縛り上げて押入れに監禁してあるが、示談金の額もさることながら、本当の狙いはそこにある。

自分が新三の標的にされているとも知らない源七は、親分風を吹かして大きく出るが、意外にも強腰で応対した新三から、十両の示談金を叩き返されても喧嘩ができない。あと先をつい見てしまう分別が邪魔をするからである。牙を剥かない老ライオンはもうこわくない。新三の嘲弄を浴びながら、指をくわえてすごすごと帰る破目になる。貫禄や名声よりも、実力と威勢の上で、新三が勝ったのだ。

十八代目勘三郎の新三が、私がこれまでに見た誰の新三よりも新三らしいと思うのは、弥太五郎源七をへこませる前後のこのあたりである。若さゆえの気負い、向こう見ず、生意気、得意、気障(きざ)、それらをひっくるめての男の色気・・・。はじめて新三を演じたときの、当時の勘九郎の若さに、私は衝撃を受けた。その時点で、三十歳の若い新三役者というものは、それまで見たことがなかったからでもある。

新三はこのあと、最前朝湯から帰りしなに、天秤棒をかついで売りに来た棒手振(ぼてふ)りの魚屋から、廻りの髪結いには不相応の大金を惜しげもなくはたいて買った初鰹を、勝奴に刺身に作らせて一杯やりはじめる。ばくちで儲けた金があればこそ出来る贅沢である。

もしこの文章を、実際の舞台を見たことのない読者が読んだら、新三という人物をどういう風に思い描くだろうか。鼻持ちならない、ギトギトした若者を想像するだろうか。そういう若者なら、現代の新宿でも渋谷でも、盛り場を少し歩けばぶつかるはずだ。

もちろん勘三郎は、そういう生なかたちで新三を演じるわけではない。のちにも述べるように、勘三郎にとって『髪結新三』という狂言は、父を越えて、祖父六代目菊五郎が今日の演出を完成したものであり、その意味からも、おろそかには勤められない大切な狂言である。型だからというより、祖父から父へと伝えた舞台への共感の中にいるからだ。

その意味では、六代目菊五郎から受け継いだ父の十七代目勘三郎や、二代目松緑等の演じてきた新三と、型の記録として文字に留めるなら、することに別に違いはない。それにもかかわらず、勘三郎の演じる新三のこのくだりを見ると、私は、新三という男の、気障で嫌みの半面にある愛嬌とか男としての魅力とかいったものを、誰の新三よりもヴィヴィッドに感じるのだ。

ひとつには、それは勘三郎自身の若さから来るものでもあったろう。父の十七代目も二代目松緑も、私が見はじめた頃にはすでに赫々たる大家だったから、どんなに巧妙に小悪党ぶりを演じていても、舞台の造形としては堂々たる役者ぶりだった。歌舞伎というのは、そういうものだと思って見ていたのである。

勘三郎が初役で新三を演じたのは昭和六十三年四月、三十一歳のときである。知られる通り、この月のさなかに父十七代目を失ったのだったが、そのとき演じていたのが他ならぬ新三であったということと合わせて、この時が勘三郎にとって第二の誕生のときであったともいえる。親の庇護を失ったというだけではない。新三という役によって、勘三郎は自立し、役者として独立独歩の歩みを始めたのである。ちょうど新三が、弥太五郎源七を叩くことによって、自ら道を拓いたように。(この項つづく)

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