随談第475回 勘三郎随想(その11)

5.「ほ」の章

勘三郎随想をまた続けよう。

この前、勘三郎がまだ高校生の頃、唐十郎のテント劇場の芝居を見に行ったら、父の先代から、アカの芝居なんか見るなと言われたということを書いたら、児玉竜一氏からメールを貰った。十七代目がむかし小山内薫のところへ出入りしている時に、兄の初代吉右衛門からあいつはアカではないかと言われたという話があるけれど、十八代目の話は、テントを見て帰ってその興奮を語っていると「バカヤロ、こっちは満洲でトラックの荷台で道成寺を踊ったんだ、今更なんでテントなんだ」と言われたのだと記憶しますがどうでしょうというのだった。

どこかに典拠がありますか?と言われるとちょっと困るけれど、私としては、十八代目がこの話をいろいろなところで語っていたように覚えていたのだった。戸板康二さんの「役者の伝説」ではないが、この種の話というのは、本人、更にはそれを直接間接に聞いた者が、更に更に語り伝えるうちに「訛伝」が生じるのが常であって、むしろそれをも含めて、「役者の伝説」と考えるのが至当ではないかと私は考える。むしろ、これも児玉氏が指摘しているように、こういう話は人の育ちを考える上で示唆的な発言であって、いわゆる銀の匙を咥えて生まれた十八代目と妾の子だった十七代目との違いはこういうところに微妙な翳を落としているとも見えるし、せっかく近代になったのに、と考える十七代目と、「近代の超克」(!)を考えるのが当たり前で生まれた十八代目と、世代の違いもある。(ついでにいえば、十八代目が見たのはテント芝居がある程度認められるようになってからでしょう、その頃はもう、どこの馬の骨か分からない「前衛」じゃないんですよね、と児玉氏は言うのだが、まさにこれは至言であって、私としては先に言われてしまった無念さを告白しないわけには行かない。ご本人には無断だが更についでに紹介すると、児玉氏は唐十郎が平成中村座の旗揚げを見に行っているのを目撃しているという。 浅草から並んで歩いて行ったので確かです。面識もないのでしゃべりませんでしたが、という。)

ところで世代の違いというなら、十七代目との違いもさることながら、もう少し「当代」にズームアップして見る時、いまの幸四郎や吉右衛門や菊五郎等との微妙な差をも見落とすわけには行かないだろう。世代論というものを何かにつけて安直に持ち出すのは愚かしいことだが、この辺りの機微に関しては世代的な「腑分け」が欠かせないところで、吉右衛門についてはあまりつまびらかにはしていないが、現幸四郎が、アングラ隆盛当時、朝日紙上で(たしかインタビューに答える形で)、折角先人たちの努力の上に現在のわれわれがあるのだから、それを今更、旧に復すべきだとは思わない云々と明言していたのを覚えている。

これはむしろ芸に関してであろうが、勘三郎は、世代論として吉右衛門世代と区別されるのを嫌っていたが(これはかなり強硬なものがあった。しかしそれは、帰するところは、負けるものか、という勘三郎一流の負けじ魂の発露と考えるのが至当であろうと私は考えている。時にやや性急に傾きがちであったとしても)、こういうことは戦前・戦時の(仮に母親の胎内にあってのものであろうと)記憶をかすかにでも持つ者と、「もはや戦後ではな」くなってから幼児の記憶を持ち始めた者とでは、決定的に(と言っていいだろう)何かが違ってくるのは如何ともし難いことでもある。

勘三郎の初舞台は、当時から有名な「事件」だった。大立者の御曹司の初舞台が話題になるのは当然だが、このときはひと際の話題をさらった。理由はひとえに、父親である十七代目勘三郎の親馬鹿ぶりにあった。ちょうど、皇太子時代の現天皇のご成婚と重なったその月の歌舞伎座には「御成婚奉祝興行」という銘が打たれていた。月並みなことを言うようだが、皇太子ご成婚が、もはや戦後ではなくなりやがて始まる高度成長時代を望んだ、開幕の式典のようなものだったとすれば、そのご成婚と同じ月に初舞台を踏んだ「勘九郎坊や」というのは、生まれながらにして時代のシンボルとなる幸運を担っていたかに、今から見れば見える。

これが幸四郎や吉右衛門や、あるいは菊五郎の世代だったら、こうもうまうまと、久保田万太郎風に言うなら、いい間の振りに、もはや戦後ではない時代に巡り合い、屈託なくその中に生きてゆくことは出来なかったに違いない。彼等には(たとえ幼時のそれであろうと)戦争の記憶がある。「戦後」というひとつの時代の記憶がある。のちの吉右衛門の万之助少年が「兄さんダブル、僕お古」と言ったというのには、明らかに、戦争の翳を引いた戦後という貧しかった時代が写し取られている。松本幸四郎家といえども、たかだか二歳だか三歳の歳の差の兄弟二人ともに新しいダブルの服を買ってやるということはない。弟の万之助としては、おにいちゃんばかりいつも新品を買ってもらえるのに僕はおにいちゃんのお古ばかり着せられることに、屈折した思いを抱かざるを得ない。このあたりの機微は、彼らとほぼ世代を等しくする私には手に取るようにわかる。何と言っても。それに比べるとき、勘三郎が生まれ育ったのは、そうした翳のない時代だったことは間違いない。勘三郎が、芸の上で彼らとの世代差を持ち出されるのに異を唱えた気持は理解できるとしても、それとこれとはまったく別の問題として、こちらとしては考えないわけに行かないのはやむを得ない。

十八代目の初舞台の演目は『昔話桃太郎』という新作で、十七代目は八代目幸四郎に爺役をつき合わせ、自身は婆役と鬼の役の二役をつとめ、満四歳のわが子の演じる桃太郎に縛り上げられてうれし涙を流すというものだった。それよりざっと三十年前の昭和初期の古き良き時代に、天衣無縫の二枚目役者として知られた十五世市村羽左衛門が、半年間という長期にわたる世界漫遊に旅立つにあたって、送別会と横浜の埠頭を出航する模様とを一幕二場の芝居に仕組んで、歌舞伎座の本興行の一演目として上演するということがあって以来の「公私混同」劇だったが、羽左衛門の時がそうであったように、勘三郎に対しても、世間はそれを笑って許したのだった。それだけの観客からの信頼を、十七代目はすでに獲得していたのである。(もっとも初舞台披露の「口上」の幕にまで列座するのは、さすがに断わられたらしい。勘九郎披露目の口上は十七代目がひとりで言った。)

十八代目が生まれたとき、十七代目はすでに四十代の半ばを過ぎていた。齢をとってから得た男の子、という図式的な解釈だけでは説明し切れない強い思いが十七代目にあったであろうことは、容易に想像がつく。このときこの地位を獲得するまで、十七代目は屈折した歩みを重ねてきていた。くわしく触れている場ではないが、東宝劇団への参加とその壊滅、関西歌舞伎への移籍、曲折を経ての六代目菊五郎の愛娘との結婚等々、これらはすべて昭和十年代、戦前というより戦中というべき時代のことだが、二十代から三十代へかけて十七代目がなめた辛酸は、さしあたりいま簡単にその経歴をたどっただけでも想像がつく。ようやく、ひとつの安定した地位を獲得したのは、このときから九年前の一九五〇年、十七代目勘三郎を襲名してからといっていい。しかもそれ以後も、病気のため半年の余も休演、奇跡的な復帰を遂げるという、さらなる曲折を経験している。

自分は一度嫌いだと思った役者を好きになるということがない人間だが、ふたりだけ例外がある、ひとりは文楽の人形遣いの桐竹紋十郎、もうひとりが歌舞伎の中村勘三郎である、中村もしほ時代の勘三郎はじつに気障(きざ)でいやな役者だった、と書いたのは前にも言ったが劇評家の安藤鶴夫だった。「それまではいつみても、どうだ俺はうめえだろうという気分が、いつも鼻の先にぶら下がっていて、それ故になんともいやみな芸の役者だった」と安藤の言う気障というのが、じっさいにどういうものだったのか、いまとなっては確かめようがないとしても、雑誌のグラビアなどで見る当時のもしほの表情に、なにか暗い影を感じるのは事実だ。しかもその暗さは、なにやら鬱屈した情念を感じさせる。正直、あまりいい感じのものとは言えない。後年、私が知るようになってからの十七代目の舞台に、この上ない愛嬌と同時に、一種の苦味にも通じる複雑な味感が、常に隠されていたのを思い出す。そうしてそこにこそ、いまでも思い出せばつい涙を誘われそうになる、余人にない深い情感があったことも。かつてはむしろ嫌味ですらあった暗い影が、そこでは一種の調味料としての苦みとなって、他の誰にもない複雑微妙な、おもしろい味覚となっていた。

そうして、もしほから嫌味なところが消えたのが、勘三郎になろうという少し前ごろからだったという安藤鶴夫の言を私なりに深読みするなら、もしほ持代の嫌味というのは、単に鼻の先に自慢げな気分をぶらさげている増上慢のためというよりもっと深く、十七代目の心中に巣食っていた、自分を十全なかたちで理解してもらえないための欝懐のゆえではなかったろうか? そのことを思い、私自身が知り始めた頃の十七代目の、愛嬌の中の複雑な味感というものを思い合わせるとき、それから何十年という歳月を距てたいまになって、ある深い思いに襲われることがある。十七代目の心の傷を、思わないわけにはいかないからだ。

大嫌いだった役者を好きになった、たった二人の例外のひとつとして、十七代目勘三郎を、すばらしい役者が出来たと安藤鶴夫が書いたのは、一九五九年のことだった。その年、十七代目は五十歳を目前にして、もうひと月で満五歳になるわが子の初舞台を「桃太郎」で飾り、観客はその稚気を喜んで受け容れたのである。

いま西暦で書いた一九五九年、昭和三十四年の四月というその月が、当時皇太子だった現天皇のご成婚の月だったことはすでに言ったが、そのご成婚パレードの実況放送を見るために、テレビの販売台数が飛躍的に増えたという話はよく知られている。テレビの時代のはじまりを、それはおのずから意味していた。東京タワーが完成したのがその前年である。ご成婚と同じ月に『昔話桃太郎』で初舞台を踏んだ幼い歌舞伎俳優の存在は、たちまちの内に全国に知れわたった。「勘九郎坊や」という呼び名が、だれがつけたとも知れぬ間に、歌舞伎を一度も見たことのない人々の間にまで広まっていた。たぶん「勘九郎坊や」は、テレビを通じて全国的な人気者になった最初の歌舞伎俳優であったに違いない。

それはまた、テレビに象徴される、あたらしい大衆文化を背負っているという意味でも、まさに昭和三十年代という時代を物語るものでもあった。皇太子のご成婚が、皇室という神秘の扉の中を垣間見させてくれるような幻想をひとびとに与え、テレビに「皇室アルバム」という常連の番組が出来(スポンサーはたしか高島屋だったっけ)、『女性自身』などの女性向け週刊誌が後室の記事で読者を獲得し、「梨園」という言葉が、実際の歌舞伎界よりもむしろ、マスコミが歌舞伎界のことをことさらに権威めかして取り上げるときに使われる、ある種の常用語(ジャーゴン)としての役割を果たすようになる。その「梨園のプリンス」の典型として、この頃、市川染五郎と市川団子が登場していた。のちに九代目幸四郎と三代目猿之助になる彼らは、それまでの「若旦那」風とはまったく異なるムードと風貌と行動力の持主として、それぞれ早稲田と慶應に進学し、プリンスのイメージを一層身近なものにしていた。「勘九郎坊や」は、そうした時代の景色を背景に生まれた申し子として、万人のアイドルとなったのである。

ちびっこ、という言葉が流行語のように生まれたのは、私の観察と記憶では、『ベビーギャング』という、『週刊朝日』に載った岡部冬彦作のひとくち漫画が発源地だったと思う。「勘九郎坊や」はそのチビッコギャングのイメージを、具体的に体現する形で、テレビを通じて全国に拡散したのだともいえる。かわいい、それ故におそるべきこどもたち(アンファンテリブル)。それは、たとえば落語の「真田小僧」のような、それまでの「とっちゃん坊や」のひねこびたおとな子どもとは一線を画した、まさしく新しい時代の子のイメージだった。天真爛漫に振舞いながら、言うことなすこと、大人を驚かせる。幼い子供が、時代を体現するという意味で、時代の主役になる。「勘九郎坊や」は、いや十八代目勘三郎は、その意味で、日本の社会にそれまでになかった存在であったかもしれない。

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