随談第597回 舞台から、その他

歌舞伎座は「六月大歌舞伎」と冠なしの素っ気ないタイトルだが、却ってこういう時の方が実質的で面白かったりする。それぞれに意欲のあるところがはっきりと見て取れる。吉・仁・幸の三人の「王様」たちがそれぞれ、自分が今何をなすべきか、あるいは、何がしたいかを考えて、それを実行しているかのようでもある。

吉右衛門が『弁慶上使』をするのは今度で3回目、さほど回数を重ねていない。いわばコテコテの丸本物中の丸本物で、現代的解釈だの現代的意義だのといった「逃げ」の場所がない。それを、音(オン)を遣ったセリフの妙で勝負をするという義太夫狂言としての王道を行く。戦後この狂言をほぼ専らにしていたのは二代目松緑で、もしかすると松緑があったおかげでこの狂言が今に残ったと言えるかもしれないほどだが、ことセリフの妙に関する限り、吉右衛門の方が上を行っていることは間違いない。

仁左衛門が『御所五郎蔵』をする。普通仮花道を作るときは、昼夜を通じて有効活用できるよう、昼の部にも、たとえば『野崎村』を出すとかするものだが、今回は専ら仁左衛門の五郎蔵のためにのみ、仮花道を拵えている。思うに、仁左衛門たっての要望があってのことに相違ない。またそれだけの五郎蔵であったろう。この前の知盛にせよ、このところの仁左衛門の舞台には、これを以て仁左衛門の○○、と言われるようなものを残したい、という思いが人一倍読み取れるような気がするが、この五郎蔵もまたそうであった。誰かも言っていたが、リアルにリアルに、という解釈であり演じ方である。それを諒とするか否かは、今度は見る側の問題なわけだが、それはそれ、仁左衛門一流の風情でもって柔らかにブレンドするところが「仁左衛門歌舞伎」の妙諦ということになる。

幸四郎が、これもコテコテの丸本時代物の『鎌倉三代記』が五回目、『一本刀土俵入』が六回目と、「幸四郎歌舞伎」として練り上げてきたものを、この二、三年、頓に見えてきた「幸四郎的風流」とでもいうべき一種の境地へと着地点を見出しつつあるかに見える。今回取り分け、それが一つの成果として見えてきたのが駒形茂兵衛で、これがなかなか結構なものになっている。元々、長身であんこ型でないところが強そうで、古いファン向きに言えば往年の千代の山(つまり北の富士の師匠、千代の富士の大師匠である)、もう少し近いところで言うと誰だろう、ともかく、腹さえぺこぺこでなければ、力士は力士だという感じがなかなかいい。前ジテの取的から後ジテの旅人まで、ずーっと無理なく一本筋が通っている。最近の幸四郎の舞台ぶりから察しられるのは、この人はこの人なりに、ひとつの域に達しようとしているのだということであり、それが見る者に、以前には時に感じられた一種の詰屈した感じを抱かせなくなった所以であろう。

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この三巨頭の相手をつとめて雀右衛門がおわさ、皐月、時姫と、女房・傾城・姫という女方の根幹となる大役を相当のレベルで演じているのは、改めてこの人の実力の蓄積を物語るものであろう。この人の出塁率の高さはかれこれもう10年も前から言ってきたつもりだが、その出塁の内容が、単打と選球の良さで選ぶ四球が主だったのが、長打の占める比重が高くなってきたのが役相撲に叶う力強さを思わせる。いまや、実質的に実力ナンバーワンと言ってよいのではあるまいか?(それにつけても、おわさが何故、「三女房
の内に入っていないのだろう?)

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松緑の新助に猿之助の三次で『名月八幡祭』を開幕劇として出していて悪くないが(それにしても、黙阿弥の『八幡祭小望月賑』の方が、もうざっと20年出ていない。幸四郎がもう一度、出す気はないか? 誰かがここらでやっておかないと、あとにつながらなくなる)、美代吉を笑也がやっている。一応はこなしていて、姿も悪くないが、ひと通りという以上には出ない。難しい役には違いないが、形を決めることに気を取られているといった風で、みずから打ったヒットで打点なり得点なりを挙げるところまで行っていない。新助と三次がよくても、この芝居、美代吉にチャームがなくては正三角形、ないしは二等辺三角形が成立しない。笑也は最近、幸四郎のところでいい役をつとめるようになったのが目につくが、かつて猿翁門から羽ばたいて出た第一号として、何とか物になってくれるよう、行く末を気にしないわけにいかない。

美代吉は、今の人には玉三郎ということになるのだろうが、われわれ世代の者には、先の雀右衛門が極め付けである。昭和41年8月、新橋演舞場で勘弥の新助だった。雀右衛門時代を前期と後期に分けるとすれば、前期雀右衛門何傑かの一に挙げてよい傑作だった。ついでだが、この時の「魚惣裏座敷」で憎まれ口をききながら舟を操ってゆく若い船頭役がちょっとしたいい役になっていて今度は弘太郎がやっているが、その時のしうかの可愛らしかったこと!

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笑也といえば、既にやや旧聞に属するが、『氷艶』と題する、代々木の体育館で開催されたスケート歌舞伎ではなかなかの存在感だった。スケート連盟側から持ち掛けられた企画らしいが、おかげで、荒川静香だの高橋大輔だの織田信成だの鈴木明子だの、テレビで見るだけだった名だたるスケーターたちの滑走する姿を実物で見る機会が出来たわけだ。内容は、まあどうでもいいようなものだが、一応筋書があって、スケーター側が善玉、歌舞伎側が悪玉を引き受けて、染五郎演ずる悪の親玉が仁木弾正で、高橋大輔演じる(?)善玉の大将義経を虐げるというのが、どうも喉につかえて呑み込みがよろしくない。仁木が歌舞伎の敵役の代表だからという説明がプログラムにあるが、仁木のあの扮装で出てくるならともかく、衣裳もメークも似ても似つかない姿なのだから、プログラムを見ない者にはただの怪物とより察しがつかない。

歌舞伎側が氷の上でどうやって芝居をするのかと思ったら、靴底に仕掛けのある履物を履いて滑って転んだりしないように、そこはまあ、うまく演出で案配してあって、実際に滑るのは染五郎と、悪の女王みたいな役どころの笑也の二人だけ(のようなものだ)、ところでこの笑也が、何でも高校時代アイスホッケーをしていたとかで一人まるきり滑り方が違う、堂々の立女形ぶりであったのは、何はともあれ同慶の至りというものだ。

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さる委員を引き受けるようになって、国立の能楽堂や、新国立劇場のオペラやバレエなどに足を運ぶ機会が多くなった。役目上の義務でもあるが一種の役得という半面もあるのは確かで、有難いことには違いない。

そこで今更ながら改めて知ったのは、当節のオペラの演出がほぼ例外なく、「現代的解釈」という呪縛の繭(つまり、コクーンである)に絡めとられているようで、何が何でも「現代的解釈」を視覚化した演出でなければ、という思い込みの中にあるらしい、ということである。ワーグナーの人物が医者の白衣みたいな上っ張りを着て出てきたり、舞台を急角度の傾斜面に作ったり(役者がやりにくいだけの話だろう)、『フィガロの結婚』の最終幕に至っては登場人物全員がステテコ姿で出てきたり(パンフレットの演出者の弁を読む限りではむしろ同感するところ多いのだが、伯爵も下男も同じ人間だということは観客各自の受け止め方に委ねればいいのであって、演出家の差し出す一つの答えだけに縛り付けられるのは、見る側としては窮屈というものだ)、どうも演出者が前にしゃしゃり出るのが、作り手・受け手、双方の共通認識という通念のなかに居座っているように見える。(そうしなければ、おそらく、「通」の観客に認めてもらえないのかもしれない。)裸の王様の物語は、権力者への阿諛追従の比喩として解釈されることが普通だが、オペラのような芸術の場合は、知的スノッブ相互の思い込みによる共存連携という形を取ることが多いようだ。もう何十年かしてから、あのころはあんな不思議な演出が流行りだったんですね、と何世代か後の人々の苦笑の種になるに相違ない。

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新国立のウィリアム・サローヤン『君が人生の時』は、まずまずだった。少なくとも、数年来続けているJapan Meetsというシリーズの中では上位に属するのは間違いない。中劇場が女性客でほとんど満席状態という入りの良さは、主役のジョーをつとめる男優がお目当ての故であるらしい。なるほど彼も悪くなかったが、しかし一番、それも断トツによかったのは、ウェスリーのピアノでハリーがタップダンスを踊る場面で、演奏・ダンス共にこの戯曲の世界をよく表現していると同時に、演奏・ダンス自体としても傑出していたからだ。ここばかりは、ブラボーと叫ぶにふさわしかった。

(ところでそのウェスリー役のかみむら周平だが、パンフレットに、少年時代、静岡で推薦がとれるぐらいサッカーに夢中になっていた云々と語っているのを読んで、ム?と思った。もしかすると親類か? つまり、御一新で幕府瓦解の折、よくある話だが上村家の本家筋は静岡へ、分家筋のわが家筋は(おそらく曾祖父の代であろう)北海道へ移住、ということになり、その後更に枝分かれした我が家系は、昭和改元前後、父の代で東京に移住、そのまま定着したのだが、その静岡の本家筋の上村家とも、戦後しばらくまでは縁の糸がつながっていたのは確かなのだ。昭和50年頃だったか、本家筋の遠縁にあたる人から、駿府に移住した旧幕臣について調べているという静岡大学の先生から問い合わせがあったのですが、叔父さん、何かご存じありませんか、と父の所へ電話があった辺りが、細々とつながっていた糸の最後であったような気がする。どうでもいいようなものだが、名前が名前だけに、もしや、と気を惹かれるのも事実だ。)

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『さらば愛しき女よ』『眼下の敵』『帰らざる河』と、ここしばらくの間にBSプレミアムでロバート・ミッチャムを見る機会に恵まれて、それぞれに堪能した。Sleeping Eye(眠たそうな目)というのだそうだが、眼光鋭くなく、猛々しくなく、むしろやさおとこの気味さえあり、といった風情がいい。一流だが、超一流なぞともてはやされるウざったさから免れて、ユニークなキャラクターで一家を成している辺りがスマートである。

物の本で経歴を見ると、14歳にして放浪生活に入る、とある。スターになるまでに相当の時日を要しているようだが、私生活は全く知らないが画面で見る限り、ものの言い様と言い、むしろ物静かに見える。この辺はちょっと三国連太郎とも共通するか。何と言っても『さらば愛しき女よ』の初老の風情が他に真似手のない格好良さだが、これは原作者のチャンドラーの狙い以上ではないかという気がする。

「愛しき女よ」と書いて「いとしきひとよ」と読ませるのは、映画の邦訳で知られた清水俊二の仕業で、「女」と書いて「ひと」と読むのはこれから始まったのだと聞いたことがあるが、おそらく事実であろう。主人公フィリップ・マーロウが事件に巻き込まれ出した頃、当時ヤンキースの花形だったジョー・ディマジオが連続安打の記録を伸ばし始めて話題を集め、やがて事態は解決、物語が終息にかかるところで、ディマジオの連続安打記録も無名の三流投手のために57試合目にノーヒットで終わる、というのが第二次大戦前夜という時代を暗示して、実に効いている。 

ディマジオといえば、『帰らざる河』ではマリリン・モンローが相手役になるのがちょいとした縁の端というものだが、1950年に一度個人として来日、翌年全米軍の目玉として再び来訪、しかしこの年で引退という晩年だったため、時に流石というプレーも見せたが、当時の日本の投手を相手でももうあまり打てなかった。更にその翌々年、今度はモンローの亭主として新婚旅行にやってきた。みぞれの降る寒い日だったが、モンローがスーツの下に何も身に着けていないというのがニュースの最大の話題で、ディマジオの影は既に薄かった。

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やはり最近のBSプレミアムで『ミニヴァー夫人』を見た。前にも一度、どこだったかの名画座で見ているが、1942年のイギリス南部の小都市のアッパー・ミドルの家庭を中心に、英独戦が激しくなり、ダンケルク撤退に夫も駆り出され、息子も航空部隊に配属されるという戦時下にありながら、薔薇の品評会が行われたり、一種の戦意昂揚映画でもあるが、古き良き英国が描き出されているところに捨てがたい良さがある。主人公のミニヴァー夫人がグリア・ガースン、夫がウォルター・ピジョン、息子の嫁がテレサ・ライトなどという、名前を聞くだけで時代が甦る俳優たちを見るだけでも価値がある。

グリア・ガースンという女優は、戦後、外国映画が、戦時中せき止められていたものも新作品も一緒くたにどっと公開された当時、イングリッド・バーグマンと並んで西欧の女優の代表的存在で、幼時だった私でも、母や姉が『キューリー夫人』だの『心の旅路』だのと騒いでいたのをよく覚えている。ずっと後、『心の旅路』を名画座で見て、なるほどこういうものかと感動したのは、映画自体より、かつて公開された終戦直後の空気に触れたためだったに違いない。ガースンはその後わりに早く姿を消したために、永遠の存在となってしまったバーグマンよりむしろ、戦後第一期の時代の空気を伝えることとなったと言える。(この頃はグリア・ガーソンと書くようだが、ガースンと書かないと、往時の匂いが香り立ってこない。)

折から東京新聞の「この道」に阿刀田高氏の連載が始まり、私よりだいぶ年長で当時既に一人前の少年だった氏が、バーグマンとガースンを戦後に見まくった外国映画の真っ先に挙げているのを読んで、意を強くした。この辺りが、調べて書いているのと、往時の記憶が「現在」として生きている人の書くのとの違いだろう。)

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将棋の藤井四段を見ていると、年下の従兄弟でのちに囲碁の九段にまでなった邦夫が、小学校の3年だったかで北海道から出てきて高名な棋士の家に住み込みで入門した時のことをつい思い出すが、もっとも藤井四段の天才棋士ぶりもさることながら、加藤一二三九段の饒舌ぶりの方が、私にはむしろ感慨なきを得ない。かつて白面の青年棋士として脚光を浴びた当時の氏の、白皙、端正な貴公子風のたたずまいの印象からすると、あの劇的な変貌ぶりは、その落差の大という点で、晩年のアラカン以来の驚きと言うべきだろう。(瀬戸内寂聴師にしても、高齢に至って過激なまでの饒舌家になるのは、人間進化のひとつの姿・形であるのかも知れない。)

加藤氏は、若くして登場した時期が大山康晴名人の全盛時代にぶつかったのが、棋士としては不運と言えば不運だったわけだろうが(あれほどまともにぶつかった棋士は他にないのではあるまいか。のちの中原誠名人の登場したころは、これに比べれば、さしもの大山名人ももう少し齢が行っていた)、もっとも、今の氏にはそんなことは大したことではないのかもしれない。それにしても、14歳と77歳が正式の真剣勝負として戦うということがあり得るという、その一つをとっても、囲碁にしても将棋にしても、思えばこれほど、人間ドラマとして「優雅なる過激」な世界もないと言える。(どれほどの大先輩であっても、勝負の決した時、「負けました」と言って一礼するという作法は、この間の呼吸を何ともよく読んだ、自ずから生まれた知恵であるのだろう。)

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