随談第482回 勘三郎随想(その16)

9.「り」の章

もう少し、十七代目の芸の話を続けたいが、その前に、ここらで十七代目勘三郎という人の背負っていた背景について、語っておいた方がいいだろう。十七代目を知る上だけでなく、十八代目について語る上でも、おそらくそのあたりが、奥の院となってくるであろうと思うからである。 もっとも、十七代目についての伝記や評伝は、すでにいくつかの先達がある。だからここでは、私の知る十七代目のよって来たるところを確認し、それが十八代目にどういう風に伝わり、どういう風に影を落としているかを知るために必要なことだけを書くことにしよう。

十七代目の評伝を読んでいて、なにか一番なつかしいような、私の知る十七代目のこれが原点かと察しられるようなことといえば、子役として出演していた大正中頃の市村座の楽屋風景である。

当時の市村座といえば、はるか後に十七代目の岳父となる六代目尾上菊五郎と、十七代目の長兄の初代中村吉右衛門が、ともにまだ三十代の若さで覇を競い合っていた、世に言う二長町(にちょうまち)時代である。二長町というのは、現在のJR秋葉原駅から歩いて数分の、当時市村座のあった町の名だが、終生「菊吉」と呼ばれることになるライバル関係の、いわば水源であり、震源地である。

市村座といえば、世が世ならば江戸三座の一として中村座に次ぐ格式をもっていた劇場だが、維新このかたの世の変動とともに衰退し、下谷二長町という、芝居小屋として一等地とは言いかねる土地に退転していたのを、名興行師として知られた田村成義が買い取って、菊五郎吉右衛門をはじめ若手花形の生きのいいところを集めて競わせたのが評判を呼んで、新時代の歌舞伎のメッカと目されていた。つい数年前に松竹の手に落ちたばかりの、いわば保守本流である歌舞伎座、山の手の上・中流のハイカラ文化を反映する帝劇と並べて、伊原青々園が老巧の批評家らしく三国志の「蜀」になぞらえたが、活気と人気の点では随一だった。(松竹による歌舞伎王国は、まだこの時点では全国制覇の途上だったのだ。)

当時の市村座は、現在も同じ場所にある凸版印刷の工場と隣接していて(市村座跡地という碑が立っている)、昼休みと終業のときに鳴らすサイレンの音が芝居のさなかにも鳴り響く、という環境だった。だがそれでも、往時の舞台を知る人々は、まるで理想の劇場を語るように「市村座時代」をなつかしんだのである。

十七代目が中村米(よね)吉(きち)という芸名で子役として市村座に入ったころ、同じ年頃の子役としてひと足先にいたのが七代目坂東三津五郎の子の坂東八十助と、十三代目守田勘弥の子の坂東玉三郎という従兄弟同士だった。それぞれのちの名前でいえば、八代目坂東三津五郎と十四代目守田勘弥である。

ところでこのころ、年齢的にも若干年長だった玉三郎は、役の上でも米吉に優位に立っていた。『先代萩』なら玉三郎が千松で米吉が鶴千代、『盛綱陣屋』なら小四郎と小三郎という、それぞれ前者の方が、子役として大役なわけである。おまけに玉三郎は、いわゆる「おませ」だったらしく、生意気な玉三郎、略して「生(なま)玉(たま)」と呼ばれていた。のちの十四代目勘弥と十七代目勘三郎を少しでも知る者として、この対比は、いかにもさもありなんと微笑したくなる、あるおかしさをたたえている。俊敏さ、おませな頭脳の働きの点で、米吉は玉三郎の敵ではなかったのだ。少年時代の勘三郎にはどこかおっとりしたところがあったのだろう。この感じは、いまの十八代目にも、まぎれもなく(と敢えて言おう)通底している。

その代わり、米吉少年は、楽屋が三階にあるので俗に「三階」と呼ばれた、門閥外の役者の子供たちの支持を獲得していた。御曹司よりも三階の子役たちと仲良しになるという、この感覚は、十七代目の人となりや、さらには芸のあり方にまでつながる、勘三郎という役者を理解する上の、見落とせないキーポイントであるような気がする。その三階の子役たちの中に、のちに舞踊家として大きな存在となった西川鯉三郎や尾上菊之丞がいて、十七代目の終生の盟友となる。

ところでこの話の山場は、この「生玉」の玉三郎と三階派の加勢を得た米吉の対立に、六代目菊五郎が口を出して、玉三郎の奴に水をぶっ掛けてやれとけしかけたというところから始まる。楽屋風呂で、菊五郎に言われたとおり米吉が玉三郎に水をかけると、玉三郎が殴り返す。噂はたちまち三階の悪童たちに伝わって、バスタオルを肩にひっかけて乙に気取った風呂上りの玉三郎を待ち伏せて、ポカポカ殴りつける、という風に筋書きは展開する。

第二場はその翌日である。おでこに絆創膏を貼って現れた玉三郎は、『先代萩』の千松の舞台をすませると、楽屋で米吉に向かってこう言った。

「米(よん)ちゃん、もう喧嘩はよしにして、これからは芝居のうまくなりっこしようよ」

この「生玉」ぶり!

結局この結末は、菊五郎がその後毎日、双方へうなぎの弁当を出してくれるという形で幕になるのだが、本名波野聖司の米吉の「よんちゃん」と、本名守田好之の玉三郎の「よっちゃん」とは、こうして竹馬の友として始まった親交を終生つづけることになる。それにしても、「おませ」でちょっぴり気取り屋のよっちゃんや、「おくて」で情の厚いよんちゃんや、三階のその他大勢の悪童たちや、まだ三十代の若さだった菊五郎のちょいと大人げないともいえる悪戯と、同時に鮮やかな裁きのつけ方などを見るにつけ、良きにつけ悪しきにつけ、当時の子供がいかに子供らしく、大人がいかに大人らしくありえた時代であったかを、思わずにはいられない。

この「生玉退治」の物語を、いま私は十七代目の自伝にしたがって書いたのだが、後年、よっちゃんの勘弥を顕彰するテレビ番組で、ゲストとして出演したよんちゃんの十七代目がいかにもなつかしげに、この逸話を披露する姿を見たことがある。

「生意気でねえ、あのころのよっちゃんは・・・」

耳朶に残る十七代目の笑いを含んだ声音は、まさにみずからの「たけくらべ」の物語を語っていたかのようだった。(いかにも蛇足を承知でつけ加えるのだが、同じ番組にやはり終生の友として出演していた十三代目仁左衛門が、いえ、生意気などということはすこしもありませんでしたよ、とかばっていたのも、いかにも好人物の松島屋というべきで、思い出してもつい微笑を誘われる。)

10.「ぬ」の章 (談話・勘弥のおじさんのこと)

―――勘弥のおじさんはうちの親父と喧嘩友達でね。ある時、俺が何かのことで親父に猛烈に怒られたことがあるんです。歌舞伎座の楽屋の出入り口のタタキが、いまでも覚えてるけど、そのころ白い砂利みたいになってたの。そこへ正座させられてるんだけど、そこへ涙がぽたぽたぽたぽた落ちてくるんですよ、ぼくの。なんで叱られたんだっけなあ。とにかくものすごい剣幕で怒られてたら、勘弥のおじさんがやって来てねえ。うちの親父に向かって、オイ、よんちゃン、お前はねえ、そんなねえ、こんな小さいときにねえ、こんなにうまくなかったよ、って。ハハハハ。なんかすごく助けてくれた。

―――ええ、だって本当の悪友ですよ。それはねえ、子供ごころに見てても、やっぱり友達だなあって思いましたね。喧嘩も一番してたんじゃないかなあ。ああ、すぐ怒ってね。駄目だあんなことやって、なんてお互いにやってたらしいしね。

まあ、そんなようなことで、うちの親父と勘弥のおじさんは育った学校が一緒でしょ。そう、市村座。だから玉さん(=現・坂東玉三郎)とぼく、仲がいいのはね、やっぱり教え方の同じ学校で育ってるから、楽屋の礼儀とか、そういうことが同じなのね。芸に対する考え方が似てるんだね。

―――勘弥のおじさんといえば、『助六』の白酒売り。「抜けば玉散る天秤棒」って言って、本当に天秤棒抜くの。あれやるの、おじさんだけね。他の方の抜くの見たことない。で、ぼくが白酒売りやったとき、あれをちょっと真似さしていただきました。

―――とにかくね、おじさんにもいろんな思い出がありますね。白鸚のおじさんと一緒で、年始に行くと、飲めよって言ってね、酒出してくれる。きゅーっとやると、お、強いね、って言ってね、やってくれた。

でも、おじさん早くに亡くなっちゃったから、ある意味で。うーん、やっぱり、あの粋な様子がね、いいですよね。

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