随談第487回 机上の妄論(その3)

池袋の新文芸坐で三国連太郎の特集をやっているのでデビュー作の『善魔』と『あした来る人』『異母兄弟』の三本を見た。『善魔』が昭和26年、『あした来る人』が30年、『異母兄弟』が32年で、私にとっては小学校から高校時代にかけてに当るこの時代の日本映画というのは、映画自体の内容だけでなく、そこに写っていること、描かれているものすべてが、いま見ると無性に面白い。二本立てだから、本当なら『異母兄弟』と同時上映の日活裕次郎映画『鷲と鷹』も見たかったのだが時間の都合がつかずあきらめざるを得なかった。しかしこれは去年、日本映画チャンネルで再会を果たしていたから、まあ諦めがつく。この特集はまだ始まったばかりで、ほぼ年代順に上映するから、名優の誉れ高くなってからの中期以後の諸作が上映されるのはこれからだが、私にとっては、これだけ見られたことで取り敢えずは満足できるというものだ。

亡くなったときにも書いたように、私は三国連太郎の格別のファンでもなければ良き観客でもなかったが、関心は常に持っていた。というより、持たざるを得ない何ものかを感じさせる俳優だった。その存在自体が「映画俳優」というものである俳優、と言おうか。その演技、存在感、その在り様が、まさに「映画俳優」以外の何ものでもない俳優。名優だの何だのと言われる俳優というのは、大概、歌舞伎にせよ新劇にせよその他何にせよ、どこかで舞台につながっている。いわば板の匂いがする。三国連太郎が舞台に立ったことがあるかどうか知らないが、その如何にかかわらずスクリーンを通じて見るその存在、その演技に舞台俳優の気配がない。(まあそれは、田中絹代にせよ高峰秀子にせよ舞台の匂いのない名映画俳優はいないわけではないが、この際、その話にこだわっている暇はないから、別の機会にしよう。)

ひとついえるのは、三国連太郎の場合、それが「知」の在り方と関わっているらしいということである。これも既に書いたように、いわゆるインテリ俳優・知性派俳優は少しも珍しくないが、三国連太郎の「知」の在り方はそうした在り来たりの「知」とは全く違う。奇しくも『善魔』では、一方の知性派俳優森雅之の演じる役と対照的・対称的な存在としての「善魔」である人物の役である。もちろん、森雅之だってそこらの知性派俳優とはまるで違う俳優だが、その「知」の在り方は、われわれにも理解できる「知」であることに変りはない。当時の日本映画界に、この映画の森雅之の「知」を批判しうる「善魔」の役を演じ得る俳優はいず、それがいなければこの映画は成立しない。思えば、その「善魔」の役を演じて一介の「ただびと」から俳優となり、その役名「三国連太郎」を終生の芸名とした三国連太郎という存在は、この処女作の中に結局は収斂されるとも言えるかもしれない。その意味で、三国連太郎という「善魔」を発見した木下恵介の慧眼はただならぬものだったというべきだろう。三国がときに「怪優」と言われるのは、『異母兄弟』で主人公の老残の姿を演じるのに歯を全部抜いてしまった、という常軌を逸した逸話がそう言わせるからだろうが、じつはそうした行為そのものが、彼の「知」の在り様と深く関わっているところが、わたしに興味を抱かせるのだと思う。

まあともあれ、三作品それぞれを、私はこよなく興味深く見た。『善魔』に出てくる桂木洋子(いうまでもないがのちに黛敏郎夫人となる人である)や、『異母兄弟』に出てくる中村賀津雄、南原伸二、高千穂ひづるの瑞々しさはどうだろう。まだ二〇歳前かと思われる中村賀津雄が画面に映った瞬間、覚えず涙が眼尻からこぼれたが、それは単に懐かしさだけが理由ではない。(高千穂ひづるなど、当時は東映の時代劇映画でさんざん見ていたのだった。南原伸二は東映大泉の現代劇俳優で、警視庁シリーズというので売出し中だった。高倉健が登場する前の東映現代劇のホープだった俳優である。)『あした来る人』も、私は井上靖の原作小説が朝日の朝刊に連載されたのを第一回から読んでいて、中学生だった私に取っては、新聞の連載小説というものの独特の面白さを知るようになった幾つかの作品のひとつだという意味もあって、こよなくなつかしいのだが、その映画化であるこの作品のような造りの、良識ある安定した作調の映画が、当時の日本映画の良質部分の一隅に絶えず作られ、存在していたのだということを、久々に再開するあの場面、このシーンを見ながら、改めて思い出していた。

(もっとも何でも昔がよかったわけでもなくて、冒頭まもない食堂車の場面で窓から見る富士山が、山頂近くがあまりに近く見えているのが、あれでは富士山の中腹を走っているようで東海道線とは思えなかったり、『善魔』でも、ラスト近くの、森雅之と淡島千景がかつての愛をとりもどそうとする大事な場面に見える三日月の形が、ちゃちな時代劇の色模様の場面の月みたいだったりするのが何とも不自然だが、じつはこの手のことは、どんな名監督・大監督の作といえども、昔の日本映画ではちょくちょくあることだった。まあそういったことも、久しぶりに見ればそれはそれでなつかしいともいえないこともないけれど。)

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