随談第492回 勘三郎随想(その23)

21.「な」の章

十七代目勘三郎の『鏡獅子』というと、じつはわたしは、たったの一度しか見たことがない。昭和三十九年十月といえば、東京オリンピックのさなかである。その月の歌舞伎座は、大立者たちが昼夜にそれぞれの演目を持つという大盤振る舞いの企画を立てて盛況だったが、わたしのたった一回の十七代目の『鏡獅子』体験は、その中で行われたのだった。胡蝶が、いまの時蔵の梅枝と十八代目の勘九郎であったことも、その踊りぶりまでくっきりと覚えている。あれほど美しく、またあれほど見事に踊った胡蝶は、その後どれだけあったろう?

十七代目の『鏡獅子』といえば、菊五郎自身が『をどり』という著書の中に「もしほ夫婦」という章で述べて以来、戸板康二『六代目菊五郎』をはじめ、いろいろなところに引用されている有名なエピソードがある。第二次大戦後間もない昭和二十三年二月、三越劇場で、当時まだ前名の中村もしほといっていた十七代目が、はじめて『鏡獅子』を踊るに当たって、岳父の六代目菊五郎から猛稽古を授けられたときの話である。

菊五郎は、踊りを教えるときは、女形の踊りであっても、下帯ひとつの素裸にさせて教えたという。基本的な骨格や筋肉の動きひとつまでごまかしの利かないようにするためだというが、このときの十七代目も、素裸で『鏡獅子』の稽古をした。真冬のはずだし、菊五郎は血圧が高く少し熱もあったというが、そんなことを厭う菊五郎ではない。それだけの準備をして開けた初日だったが、見に来てくれた菊五郎の気に入らなかった。それから、もしほの苦悩と、菊五郎の師としての厳しさと、岳父として、また愛娘であるもしほ夫人への父親としての情の葛藤とが言外に綴られていくのだが、十七代目にとっては、それだけの思い出のある『鏡獅子』なのだった。

それから十六年、この話はすでに「伝説」となっていた。十七代目勘三郎として、押しも押されもしない大立者となったいま、もはや昔のもしほではない。勘三郎自身も、折に触れ、その「伝説」を語っている。おのずから、その『鏡獅子』は特別な目で見られることになる。

しかし現実には、勘三郎はその後、それほど回数を重ねて『鏡獅子』を踊るということをしていない。改めて確認したところによると、昭和二十三年から三十九年までのあいだに、東京では一度だけしか出していない。それだけ大切にしていたのか、何か理由があったのかは知る由もないが、この当時、『鏡獅子』といえば、菊五郎の後継者である七代目梅幸が最も頻繁に手掛け、代表的と見られていた。私も何度も見ているが、たしかに、端正で、女形でありながら後ジテの獅子の気組みもよく、前後のバランスもよく取れた、オーソドクシイを感じさせる立派な『鏡獅子』だったと思う。(胡蝶といえばいまの団蔵の銀之助や、いまの松也の父の松助の禄也や、その弟でいまの大谷桂三の先代松也といったあたりだったっけ。)

歌舞伎になじんでまだ日の浅い当時のわたしにとっては、そういう梅幸の『鏡獅子』がおのずからひとつの規範のような働きをすることになる。そうした目からすると、はじめて見る勘三郎の『鏡獅子』は、どこか感触が違って感じられた。弥生は、梅幸のような現代人にもそのまま受け入れられる種類の可愛らしさというより、もう少し老けだちの、悪くいえばもっさりというか、昔ふうの娘という感じがした。獅子も、量感は梅幸以上にあって立派だが、隈を取った顔が、梅幸のような鮮明さと違い、にじみでも掛けたように、くすんだように感じられる。その分、古風な味があるともいえる。

十七代目の弥生が少し老けだちに見えたといま言ったが、このときの劇評を、老劇評家の浜村米蔵が書いているのを読むと、かなり辛辣な言葉がならんでいる。浜村米蔵という人は、大正中期の一番盛んなころの帝劇の文芸部に入る前、市村座の狂言作者として黒衣(くろご)を着て舞台裏で働いていたという経歴のある、その時点で批評家として半世紀にもなる閲歴の持主だったが、まず昭和二十三年の三越劇場の客席で、当時もしほの『鏡獅子』を見たときの「なまなましい想い出」から書きはじめる。

三越劇場はごく小さな劇場なので座席も少ない。うしろに立って見ていたら、すぐそばに菊五郎がいて、もしほの踊りを見ながら、「いけねえ、あ、いけねえ」とか「駄目駄目」とぼやいたりつぶやいたりする。そのつど、まわりのお客からシッシッと声がかかったり、「うるせえ」と叱咤したりする者もいる。菊五郎はたちまち出て行ったが、誰もそれが六代目とは気がつかないらしい。私はそこにはっきり歌舞伎の傾斜を見る思いがした、と浜村は書いている。終戦後まだ三年という時点の、歌舞伎をめぐる時世の落差をとらえた文章として興味深い。

さて、浜村米蔵の十七代目『鏡獅子』評だが、その前ジテには疑問がある、と浜村は言う。ひどく色っぽく、表情過多だ、というのである。「おぼろ月夜やほととぎす」という長唄の文句に合わせて、袂を持った手を胸にあてて、ほととぎすが飛び去るのを目で追う仕草をするところが大切なところとされているが、そこのところの目の使い方などはうまいものだ、と浜村はほめる。つまり技巧は認めているのだが、せっかくのその巧さがあまり引き立たないのは、全体に目を使いすぎるからで、あれでは十六、七のお小姓ではなく、色気ざかりの町娘どころかまるで年増だ、ときめつけている。

額面通りに読めば大変な酷評だが、わたしがこの批評を長々と引いたのは、これに賛同するわけでも、当時の劇評の代表として挙げるわけでもない。この浜村の批評に、わたしはある興味を覚えるからである。浜村自身は認めていないが、鑑賞の基準を変えて見るなら、浜村のこの評言は、十七代目の踊る前ジテ弥生の特徴の一面をよく捉えている。つまり老けだちで、現代人の考える乙女の清純さというのとは微妙に違う、むかし風の娘のぼんやりとした風情、とさっきわたしの言った在り様と、重なり合う。そこを、浜村はだからいけないと言い、わたしは、だから面白いと感じるのだ。

たしかに、十七代目の弥生は、現代の観客にストレートに受け入れられるような清純な乙女ではないかもしれない。その意味では、『鏡獅子』の批評としては、減点の対象になるのかもしれない。しかし翻って言うなら、娘を演じればそういう女になってしまう十七代目勘三郎という人の、役者としての体質を、わたしは面白いと思うのだ。またしても言うが、そこに三代目歌六の翳を見るからである。

十七代目はその後、二年後の昭和四十一年暮の京都南座の顔見世で出したのを最後に、『鏡獅子』を踊ることはなかった。理由は、おそらく年齢と体力の均衡を案じてのことだろう。

22.「ら」の章 (談話・父十七代目の『鏡獅子』のこと、『娘道成寺』のこと)

―――家の親父の『鏡獅子』でぼくの印象に残っているのは、南座の楽の日に百回毛を振ったのを覚えてます。それでぼくも真似してやってたんですけど、もうそろそろやめます。まあ、そんなに印象にないですよ。教わったんですけどね。教わったんですけれど、なんかあの、巧い、という『鏡獅子』かなという気がします。だから、味とか、巧い感じとか、なんじゃないですかね。

―――『道成寺』もそうです。巧いんですよ。テクニックですね。技というか。だからたとえば、「誰と伏見のすみぞめ」チチチチチなんてやるとお客さんがワーッていう。そういう風なことでやってたんだなあ。もっと早くにやればよかったんだけど。でも可愛かったですよ。あの、ゴリラみたいだったなんていうと怒られちゃうけど、だけど、そういう風に見える瞬間があるってことは凄いんじゃないのかとは思いますね。

―――あのときは国立劇場でも梅幸さんが『道成寺』をやって、歌舞伎座のお父さんと競演だったんですね。昭和四十六年三月でした。

―――そうそう。『道成寺』についていえば、私はこれは『鏡獅子』の後から追っかける形で踊るようになった。弥生さんを花子が追っかけたというわけ。二十歳で弥生さんをやり、『道成寺』は平成五年三月に『身替座禅』と一緒にやらせていただいたと思うんだけど。―――もちろん両方ともこれからも何回もやっていくんですけれども、踊りとしてはまったく違う。花子は、踊り込む。弥生というのは、踊るんですけど踊っちゃいけないんですよ。中に絞り込むんです。この間も染五郎が白鸚のおじさんの追善で『鏡獅子』を踊るっていうので、それを言ってやった。汗びっちょりかいてやっているけれども、まだわからないみたい。体を使って踊るんだけど、地味というか、抑える。中に入るんですね。だって大体、弥生はむりやり連れてこられて、いやいや踊るんだから。中に、内に絞るんですね。たとえば、チャンチャンと、手をこう出しますね、最初。そうしたらそこで極力、動きを小さくするんですよ。

―――片や、花子さんは派手なんですよ。もう可愛くてしょうがない。こんな楽しいことはないっていう。踊りたくってしょうがない。だって舞姫ですからね。ただその中でも、金冠をつけた、最初のあそこはずーっと動かないようにという口伝はありますよ。ただ根本的に陽気な子ですから。花子さんは陽気、弥生は陰気っていうか、やっぱりおぼこ。そのおぼこが、ちょっと羽目をはずしてこんなに踊るから可愛い。で。花子はほんとに可愛いっていうね。そのまったく違うところがミソなんですけれども。これはどちらもやっていきたいですね。

―――それともうひとつは、風情で見せる『道成寺』というものを歌右衛門のおじさんが確立なさった。これは六代目とは違うものですね。いまはそっちばっかりじゃないですか。そこに六代目のおじいさんのやり方のような『道成寺』を、やっぱりこれは、誰かがやらないといけないんじゃないかと思うんです。情念とか、もちろんそういうものも大事なんだけど、だってあれは『日高川』と違うんだから。ハハハ。理屈で行きゃあ。「京鹿子、ムスメ道成寺」だよということをね、踊りで示したい。だからおじいさんは「ただ頼め」がよかったって。写真見ても可愛いですよ。それから「鞨鼓」がよかった。踊りっていうもの、踊りで見せる『道成寺』っていうものを意識しますね。

―――先輩方のを見せていただいたなかでは、天王寺屋(=中村富十郎)のがやっぱりそうでしたよね。踊る道成寺っていうね。神谷町(=中村芝翫)もそうだけれど、ちょっと神谷町ともまた違う。まあ、ボクの先生は神谷町なんですよ。なんですけど、その、可愛らしさっていうと・・・みたいなことかな。やっぱり、踊り手の踊る踊りっていうか。芝居に持って行かないっていうか。

―――加役の踊りですね。これも体の続く限りね。情とか情念で見せない分、続けるのは大変なんですよ。体を使うから。

―――お父さんも、若いころはなさったでしょうけど、『鏡獅子』も『道成寺』も一回しか見てないんです。

―――『道成寺』はうちの親父は一回しかやっていないでしょ。満州へ戦地の慰問に行ったときにやっているけど。

23.「む」の章

『鏡獅子』に比べると、勘三郎が『京鹿子娘道成寺』を踊るようになったのは大分後になってからで、踊った回数もずっと少ない。談話にもあるように、戦後の歌舞伎の流れの中で、中村歌右衛門のを代表とする、女形の踊る『道成寺』が主流となってきたということも、若いころには踊る機会が少なかった遠因の内にあるのかもしれない。一日だけの舞踊会は別として、本興行の演目としてはじめて踊ったのは、これも談話にあるように、一九九三年三月、三十六歳のときだった。そのときももちろんよかったが、その年の暮れ、南座の顔見世で見た『道成寺』がわたしには忘れがたい。年が明けてすぐ、今度は歌舞伎座で『鏡獅子』を踊るのを見た。短い間に歌舞伎を代表する二大舞踊を踊る勘三郎に、旭日の勢いというのはこういうことかと思った記憶がある。初演と再演で、すでに驚くべき高いレベルにあったためでもあるが、もうひとつは、女形の踊る嫋々とした風情や、恋の情念を見せる『道成寺』が席巻した感のある現在の歌舞伎に、久々に見る、立役の役者が若い娘の恋の姿のさまざまを踊る、目のくらむような、息の詰んだ踊りの技で見せる『道成寺』だったからだ。

更に五年後の歌舞伎座。このときは、いまでなければ踊れない白拍子花子を見てくれというコメントが私の手許に届けられた直後に見たのだったが、まさにその通りの『道成寺』だった。五年前よりたおやかさ、芸のふくらみが増した中に、前段はしなやか、中段の「恋の手習い」の眼目のくだりはたっぷりと、それがすんだのちは疾風迅雷の趣きであっという間に幕切れに至るという、息もつかせぬものだった。こういう『道成寺』は、心身相俟って盛んだったころの中村富十郎以外、見たことがない。六代目菊五郎を知らない私としては、加役の踊りで見せる『道成寺』の神髄というのはこういうものかと思うばかりだった。

「道行」から「鐘入り」まで。余計なものは一切ない。「娘」道成寺のエッセンスだけが圧縮されたかのようだ。たっぷりと、豊饒でありながら、むしろあっけないとすら思えるほどに、疾風のように過ぎ去った一時間余だが、余韻はかえってその方が深い。

それからまた五年後が、十八代目襲名興行のときだった。このときには、いままでとはやや異なる印象を受けた。全段の運び方としては変わりはない。おきゃんな町娘の恋の万華鏡を見るような楽しさにも変わりはない。だが「恋の手管」のくだりがすんで、曲が終局にかかるにつれ、獅子奮迅の趣きが増し、それはやがて、現世の愉悦が一種の狂気へと募ってゆくような趣きだった。といっても、決して、かつての歌右衛門のそれのような、道成寺伝説を踏まえた『日高川』のように蛇身に変身することを予感させる、恋の執着の怖ろしさを踊るが故ではない。終局へ向けて踊りこんでゆく、踊りそのものによって凄みとか狂気とかを、見る者に感じさせるのだと言ったほうが適切だろうか。

このときには勘三郎としては初めて「押戻し」をつけたが、その團十郎の大館左馬五郎が実に雄大雄渾で、荒事役者の本領を見せるものだった。しかし、襲名興行の祝事ということを抜きにして見るなら、勘三郎の白拍子花子には、蛇身になって押戻しに花道から押戻されるというのは、あまり似つかわしくない。勘三郎の花子の踊りは、『日高川』の伝説を踏まえた踊りではないからだ。つまり、このときの『道成寺』によって勘三郎が示した狂気とは、芸それ自体の狂気なのである。

かつて六代目菊五郎が、その最も盛んであったころ、「まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで」という句をものしたというのは、『娘道成寺』を快心の思いで踊ったときの感懐だという。芸をすること、踊りを踊ることの法悦のなかにあっての感懐であろう。このときの勘三郎がどういう心境に至っていたのかは聞いていないが、何か、一脈通じるものを感じさせるものではあった。

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