随談第495回 勘三郎随想(その25)

26.「の」の章

一九六九年四月、満十四歳を目前にした『連獅子』から、少年俳優中村勘九郎の時代が始まるとすれば、その時代の勘三郎を語るものとして、一九七一年三月歌舞伎座での『二条城の清正』の秀頼、同じ年十一月歌舞伎座での『時今也桔梗旗揚』の光秀妹桔梗、一九七二年七月歌舞伎座の舞踊『鞍馬獅子』の卿の君の三役を挙げよう。もちろん、この他にも記憶に残る好舞台はまだまだあるが、のちの十八代目勘三郎につながる新たなものを、十代の勘九郎が成長の過程で見せた記憶すべきものという意味で、この三つの役に焦点を当てることにしよう。

一九六九(昭和四十四)年三月は勘九郎十四才である。この月は、父の十七代目が非常な意欲を燃やし、亡兄の初代中村吉右衛門の当たり役として知られる『二条城の清正』を初役で演じ、女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』に挑んで話題を集めただけでなく、昼の部夜の部を通じて五演目に出るという旺盛な働きぶりだった。とりわけ『娘道成寺』は、同じ月、国立劇場でも梅幸が踊っていたから両座競演の形となったので、『演劇界』ではわざわざ両者の比較評を載せるなど、勘三郎の意気込みのほどが話題となっていた。勘三郎としては、実は本興行ではこの時が初演だった。戦中の昭和十八年、戦地の慰問として中国戦線(当時の言い方では「中支戦線」)の奥深くまで出向いた先で踊って以来というものだった。(この時の模様が、当時の『演藝画報』のグラビアに載っている。金冠をつけた白拍子花子の姿で、戦闘服姿の後援者と撮った記念の写真で、「背後の山は敵陣地です」とキャプションにある。なおこの記事が載っている『演藝画報』昭和十八年十月号というのは、明治四十年から続くこの栄誉ある雑誌の最終号で、翌月の十一月号から『演劇界』に切り替わることになる。)それから二十八年を距てたこのとき、十七代目勘三郎六十二歳、働き盛りであったといえる。

ところで『二条城の清正』は、この作以外にも、古典と新作を問わずさまざまな作品で加藤清正の役を得意にしたので清正役者といわれた兄の吉右衛門が、中でも繰り返し演じて、一種の名物視されていた演目だった。いまなお、ほとんど唯一(といっていいだろう)上演レパートリーの中に数えられている「清正物」だが、昭和八年に新作、初演された時、清正の庇護する豊臣秀頼の役をつとめたのは、当時前名の中村もしほをだった他ならぬ十七代目自身であり、その後、兄がこの狂言を出すたびに、幾度となく演じてきた役だった。十七代目としては、亡兄の当たり役に挑むという自分自身の意欲と同時に、勘九郎にかつての自分の持ち役をつとめさせたいという思いも強かったに違いない。

大坂の陣を三年後に控え豊臣方劣勢の中、新帝即位のため京の二条城に入った徳川家康から、成長した秀頼をひと目見たいという名目で呼び出しがかかる。豊臣恩顧の大名たちが家康へなびく中ひとり誠忠の志を忘れない清正が秀頼の守護役として付き添い、無事対面を果たさせるという、歴史上のひとこまとなる史実に基づいた作品で、とりわけ、大詰の御座船の場で、秀頼と手を取り合って越し方をしのび、行く末を思って男泣きに泣く場面がクライマックスだから、演じる父と子がそのまま清正と秀頼に重なり合う。ちょうど子役の域を抜けて成長しようとしている勘九郎は、まさしく秀頼にふさわしい。

勘三郎の狙いは、果して当たった。勘九郎の成長は、すでに二年前の『連獅子』によって明らかになっていたとはいえ、これは舞踊である。役を演じて人物を表現することとはおのずから別である。十五歳の勘九郎の演じる十八歳の秀頼は、史実の人物としてはやや幼いとはいえ、かつての勘九郎坊やや、名子役勘九郎のイメージがまだ残像として眼底に残っている観客に、少年らしい眉宇に成長の証しをくっきりと見せるには充分だった。十七代目の演じる清正が、凛然として家康に対し臆するところなかった秀頼の振舞いに感じ入り、大坂へ向かい淀川を下る御座船の上で感涙にむせぶのが、ここまで成長した勘九郎に目を瞠る観客の思いと重なり合う。

その成長ぶりとは、ただ、大きくなったというだけのことではない。セリフの口跡、メリハリ、立ち居振る舞いにおのずから窺われるイキや間のよさ、気組みのよさといったことは、歌舞伎俳優としての基本をしっかりと仕込まれていることを察知させ、同時に、その稟質の高さを窺わせる。幼いながらに、ある頼もしさすら、見る者に感じさせる。清正がセリフの中で言う、この先二十年も三十年も生き続けてお守りしたい、今宵ばかりは命が惜しくなったという言葉が、この少年俳優の将来を語るかのように聞きなされる。まさしく勘九郎は、『連獅子』につづき、将来へわたって無限に続いている役者人生にひとつの里程標を築いたのだった。

(おまけのようだが、このときの夜の部の最終、いわゆる追い出しの演目に、『妹背山』の道行を、いまの時蔵の求女、芝雀の橘姫と共に、お三輪を踊ったのも、もうひとつのヒットとして忘れがたい。同年配の三人それぞれに、巣立ちの準備をはじめたのである。)

勘九郎はさらに、間を置かずにもう一弾、有効打を放つ。同じ年の十一月に演じた『時今也(ときはいま)桔梗(ききょうの)旗揚(はたあげ)』の桔梗である。

十七代目の意欲的な活動はまだ続いていて、これも兄初代吉右衛門の当り役だった『馬(ば)盥(だらい)』の光秀に取り組んだのだった。若いころから六代目菊五郎に私淑し、やがてはその女婿となった十七代目は、それまで菊五郎の当たり役をわが物にすることに意欲を傾注してきたが、しばらく前頃から、兄の吉右衛門の当り役にも触手をのばすようになっていた。『籠釣瓶』や『大蔵卿』のような仁にあったものは既に我が物とし、次いで『俊寛』や『盛綱陣屋』を手掛けていたが、『逆櫓』の松右衛門や『二条城の清正』など、武張った役は、若いころには女形と和事味のある若衆方を本領としていた十七代目には、本来なら守備範囲に入って来ない役だった。のちに、生涯に演じた役の数によってギネスブックに名前が載った十七代目だが、この当時が、その版図拡大の時期でもあったのだ。『桔梗旗揚』の光秀も、まさにそれだった。

さて、このとき十六歳の勘九郎の演じた桔梗というのは、光秀の妹で、春永に兄光秀が辱しめを受ける中、兄の心中を思いやりながらも凛として振舞う乙女の役である。兄が馬盥で酒を飲まされたり、銘刀の代わりに流浪時代の辛苦の印である妻の切り髪を与えられるなどの屈辱のあいだ、終始傍らにあって気遣いながら共に無念に堪えるという、肚のあるむずかしい役だが、見たところは長丁場の間ただじっと坐っているだけのように見える。若手の女形のつとめる定番のような役ではあるが、多くは、神妙にという方に心が行って、存在の希薄な、色取りの役として終始してしまいがちである。

だが、このときの勘九郎は違っていた。きっちりと、役の行儀は守りながらも光彩を放っていて、私はいまだに、これほど役の性根の通った、存在感のある桔梗を他に思い出せない。このときの『演劇界』の劇評は、国文学の泰斗として知られた成瀬正勝だったが、(こういう、いわゆる劇評家とは違う識者に批評を書かせるということを、当時の『演劇界』はちょいちょいやった)、勘九郎の光秀妹桔梗が美貌でもあり可憐であったとほめた後、この少年は幼少時から天衣無縫なところがあり、最近では『連獅子』で親父を圧しかねまじき熱演を示し、また三月のお三輪の踊りでも並々ならぬ好演振りであった、美貌という点ではいまや花盛りの坂東玉三郎がいるが、その後を追うものは勘九郎ではないかと思っている、という評を書いている。ここでいう「美貌」という言い方にはおそらくちょっと注釈が必要で、人形のような整った美貌というより、役者としての個性が役を通じて耀き出しているような美しさを言っているのだと、私は解釈している。事実、私の目にも、このときの勘九郎の桔梗の美しさは、四十年余を経たいまも忘れがたい。

少年俳優勘九郎を語るもうひとつの役は、翌一九七二年七月に猿之助の喜三太を相手に踊った『鞍馬獅子』の卿の君である。この興行は、前年の十二月に病に倒れた父十七代目が半年余の休演ののち、久々に復帰して勤めるということがあって、その夜の部に『再岩藤』を五年ぶりに上演していた。しかしすでに十七歳になっていた勘九郎は、もう志賀市をつとめる年頃ではなく、大喜利に『鞍馬獅子』を踊ったのだった。(このときの志賀市は、現在の清元延寿太夫の岡村清太郎である。当時の清太郎少年も、私の観劇歴の中の名子役列伝に入るいい子役だった。)

『鞍馬獅子』という踊りは、古典の舞踊としては有名だが、歌舞伎の本興行の演目としてはそうしょっちゅう出るものではない。卿の君というのは平時忠の娘で義経の正妻だが、ここでは、都落ちした義経の後を慕って、形見の薙刀を手に狂乱の体(てい)で登場、太神楽の喜三太とからんで踊るやり取りの中に、古い曲らしいよさを味わうもので、かつての六代目菊五郎と七代目三津五郎のような名手同士で踊ってこそ面白いというのが定評となっているような、やや高踏的とも言える作品である。それを、そのころ若手新鋭の中の先頭に立ち独自の道を歩みはじめていた猿之助(もちろん、現・猿翁のことである)と、まだ花形という位置を獲得する前の勘九郎が、本興行の演目として踊る。先輩の、既に踊りについても定評を得ている猿之助に対し、互角にわたり合うだけのものを見せなければ、そもそも成立しないことだろう。

ちなみにこの時点での猿之助は、前年の同じ七月の歌舞伎座の昼の部で、曽祖父以来猿之助という名前が一日の空白もなくちょうど百年つづいたのを顕彰する「猿之助百年記念」という公演を本興行として成功させ、一年後の七月のまさにこの興行の昼の部では、『義経千本桜』の半通しを上演するという、勢いを加速させつつあるさ中にあった。もうひとつついでにいえば、その昼の部の中幕に、十七代目は得意の小品舞踊『お祭り』を踊って、前年末に大病で倒れて以来長期の休演が続いた後に、満天下へ病気回復の挨拶代わりとしたのだった。(病気回復の舞台に『お祭り』を踊るという「吉例」は、昭和三十年に一度目の大病復帰の舞台で踊って以来、例となったもので、十七代目としてはこの時が二度目だった。)だから夜の部の『鞍馬獅子』に猿之助が勘九郎の相手をするのは、いわばその返礼ともいえた。中村屋と沢潟屋は、この時点でそうした関係にあったのでもあった。

ところで、ここでも勘九郎の成長は目を瞠らせた。猿之助の喜三太の太神楽と、さまざまな起伏にとんだやり取りの虚々実々や、おおらかな古典味は、しっかりした技術的な裏づけと同時に、踊りではあっても役者としてのセンスのよさがなければ成り立たない。それが役者の踊りというものの面白さであり、こわさでもある。父と踊った『連獅子』は、松羽目物という能舞台に模した一種の抽象的な空間の中で踊るものであり、そもそも作品自体が近代の所産である。前年の『妹背山』の道行は、『鞍馬獅子』に劣らない劇的な空間の中で踊るものではあるけれども、同年齢の子供同士で踊ったものだった。『鞍馬獅子』は、いまでは単独の一幕物として出される舞踊だが、本来は長い筋立てを背景として持っている顔見世舞踊であり、踊りの技術と同時に役者心というものが求められる。若手とはいえすでに一人前以上の役者として存在を確立している猿之助と対等に渡り合えたということは、この時点での勘九郎が、すでに一個の若手役者としてスタートラインに立てるだけの力を備えていることを物語るものといえた。暑い梅雨明けの一夜、旧歌舞伎座の三階席でこの一幕を見たときの快い驚きを、私はいまもある充実感とともに甦らせることが出来る。

27.「お」の章

こうした日々の間、勘九郎は、父と出演する歌舞伎座その他の興行で、十代という、もう子役でもなく、さればといって大人でもない年齢に相応の役をつとめていた。そうした中に、舞台年譜のリストをたどれば、なんともなつかしい役々が思い出されてくる。『水天宮利生深川』筆屋幸兵衛の娘お雪とか、父の十七代目と、東宝へ去って以来久しぶりの八代目幸四郎の顔合わせが実現した『蔦紅葉宇都谷峠』の文弥の妹おいちといった小娘の役、『仮名手本忠臣蔵』四段目の力弥、九段目の小浪のようなれっきとした娘役の大役、『百物語』のから傘一本足のような珍品まで、いちいち語り出せば切りがないことになる。

いまこうして振り返ってみて改めて思うのは、この「半端な」季節にも、勘九郎はしごく着実な歩みを続けていたように見えることである。子役時代には華々しい活躍をしたにもかかわらず、この季節を通り抜ける内にいつしか精彩を失ってしまう例は、記憶にあるだけでも、いくつも数えることができる。そこを通り抜けて、ふたたび若手花形として華やかな活躍を始めた例も少なくないが、一度失った精彩を取り戻すことができないままという例も、決して少ないとはいえない。十代の半ばという年齢が、身体も精神も大きく変る、万人が通過することをまぬがれない惑いの日々であることは、歌舞伎俳優といえども変ることはない。

勘九郎の場合、いまその当時につとめた役々のリストを一望すると、やはり父十七代目の目というものを感じざるを得ない。十五歳までは役が少なく、十六歳以降急激にふえるのは、義務教育の学齢を終えたことの反映でもあろうが、同時に、勘九郎自身、惑うことなく自分の進むべき道が見えていたことを物語っている。そうした中で、当時つとめた役を仔細に見てみると、ひとつひとつの役が、年齢や、勘九郎の芸のあり方といった観点から、しっかりした見識によって選ばれたものであることに気がつく。そこに私は、父十七代目の眼差しを感じるのだ。

一方また、この間にも勘九郎は、毎年八月には国立劇場で当時盛んだった若手俳優たちの自主的な勉強会の一環として、「杉の子会」と称する公演を毎年開催し、つぎつぎと大役に挑んでいた。『義経千本桜』の静御前、『絵本太功記』の真柴久吉、『寺子屋』の千代、『妹背山』道行のお三輪(先に言った同世代三人での歌舞伎座での上演は、実はこのときの好成績へのご褒美だった)、『鎌倉三代記』の三浦之助、『船弁慶』の静と知盛、『関の扉』の宗貞、『伊勢音頭』のお紺といった役々である。こう並べて見てもわかるように、のちの持役になっているものばかりであり、将来の自分の役どころを見定めつつ、着々と歩を進め出していたことがわかる。そうした日々の続いた先に、あの『鏡獅子』が来るのだった。

『鏡獅子』の初役は前にも言ったように昭和五十一年四月、誕生日を五月に迎え、二十一歳となる直前だった。まさに、私人としての人生の成人を迎えるのと、役者としての成人を迎えるのとが一致していたことになる。もちろん、その役者人生には、こののちさまざまな曲折があるわけだが、これから以降のことは、編年風にたどってゆくよりも、役者勘三郎をその芸を通じて語る方がふさわしい。

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