随談第509回 勘三郎随想(その34)

43.「ゑ」の章

まるで犯罪者のような気分だった、と野田秀樹は言う。

「歌舞伎国」のなかで、僕はまったくもって異邦人だった、と串田和美は言う。

野田秀樹を、はじめて歌舞伎座の舞台に立たせたときの興奮のことは、すでに勘三郎自身が多くの機会に語っている。串田和美は、勘三郎と関わることによって歌舞伎の演出をするようになった体験を、みずから『串田戯場』という一書に、赤裸々に且つ暢達に語っている。野田との出会いから、ついに歌舞伎に深く関わらせるに至るまでの、勘三郎と野田と、双方の高揚と、その陰にある小心と細心についても、すでに小松成美によってその著『さらば勘九郎』のなかにあざやかに切り取られている。

串田和美にせよ、野田秀樹にせよ、勘三郎によって歌舞伎と関わるようになったふたりのことを考えるとき、私が何よりおもしろいと思うのは、あるいは異邦人といいあるいは犯罪者という、その歌舞伎に対する「異物」としての意識である。その意識の明確さであり、鋭さである。そのことが、彼らふたりを、これまで歌舞伎と関わりを持ってきた演劇人や文人たちと、鋭く分けていることに、私は興味をそそられる。

そうなのだ。作者や脚色者として、あるいは演出者として、その他さまざまな形で歌舞伎と関わり、歌舞伎を作る場に入ってきた者は、じつはこれまでにも数知れず存在する。坪内逍遥や岡本綺堂以来の、新歌舞伎と呼ばれる近代歌舞伎の新作品を書いてきた、玉石混交、無数の作者たち。あるいは脚色者たち。演出者という役割も、座付きの「狂言作者」の書いた作品が古典と見做され、それに代わって「劇作家」と称する作者たちが近代劇の手法で新作品を書くようになって以来、上演の現場に関わるようになって久しい。それらの人びとが、どういう態度どういうスタンスで歌舞伎と関わったかは、文字通り千差万別だろうが、ひとつあきらかなのは、その足跡を何らかの意味で歌舞伎に強烈に残すような仕事をしたのは、自分の中に、歌舞伎に対する「異物」意識を明確に持っていた人たちであったということである。仮に話を戦後に限ったとして、武智鉄二がそうであったろうし、近くは梅原猛にしてもそうだろう。歌舞伎に向かい合う角度は正反対であったとしても。歌舞伎になずむ者より、歌舞伎に違和を見いだす者の方が、歌舞伎をよりよく見る者であるともいえる。

野田秀樹が勘三郎に慫慂されて、ついに歌舞伎の現実に関わるようになるまでの、畏れと不敵さは、言い換えれば、自分と歌舞伎との間の距離をつねに測定している者の「異物」意識の故だろうが、その間の事情を簡明にあぶりだした小松成美の著書を通じて何よりも興味深いのは、勘三郎が自他に問おうとしている「問い」である。一言でいうなら、歌舞伎とは何か、という問い。勘三郎の言葉を小松の著書から借りる。「歌舞伎役者だけが集まっていれば、歌舞伎の定義なんて必要ないでしょう。でも、外の人から見れば、歌舞伎が歌舞伎であるための分かりやすい定義が必要なんだよね。」

その勘三郎の言を受けて、野田は、演出家の不在、ということを言ったというが、このやり取りを通じて勘三郎に感じるのは、(そうして、もしかすると世人が勘三郎を最も理解していない側面は)、歌舞伎に対する冷徹なまでの客観的な眼差しである。もちろん、勘三郎が歌舞伎に冷徹なのではない。事をなそうとするに当って、現代という時代のなかで歌舞伎が置かれている状況、現代の社会のなかで歌舞伎に投げかけられている人びとの視線、眼差しといったものへ、勘三郎がどれだけ冷徹に意識を働かせ、見切っているか、ということである。

歌舞伎とは何か? この問いは、これまでにも、何か事をなそうとする者へ、いつも投げかけられてきた問いであり、同時に、事をなそうとする者が、つねに自身に問い、他へ投げ返してきた問いである。小松によれば、懐疑し逡巡する野田へむかって勘三郎はこう言ったという。「歌舞伎役者が演じれば、それはもう歌舞伎だし、その歌舞伎に出演すれば役者はみんな歌舞伎役者なんだ」と。

この勘三郎の言を読んだとき、まず思い浮かべたのは、この時点からほぼ四十年余前、一家一門を率いて松竹を脱退、東宝へ移籍してセンセーションを巻き起こした当時の八代目松本幸四郎、のちの松本白鸚が、ほとんど同じ趣旨のことを言って、話題になったときのことである。それは、歌舞伎界の現状に飽き足らず東宝に移籍したものの思うほどの活動の機会に恵まれず、女優と共演するような舞台が多くなった白鸚へなされた、少々ぶしつけな問いに対する、やや憤然とした語調の発言であったと思う。それだけに、当時としては、むしろ放言めいたニュアンスで受けとめられたのだったが、しかしそれ以来、私はこの言葉が、もう少し深く、もう少し重い意味をもって、いつも忘れられずにいる。

歌舞伎役者がすればどんな芝居だろうと歌舞伎なのだ、ともう少し正確に言えば白鸚は言ったのだが、歌舞伎の芸を蓄積した役者の身体なり、あるいは逆に、役者の身体に蓄積された歌舞伎の芸なりへの揺るぎのない自負が、この言葉からたちのぼってくる。前々章の末尾に引用した串田の言が思い合わされる。「歌舞伎の型を何十年も追及してきた役者が、その身についた型からすーっと解放されるときの凄み」と串田は言ったのだった。『三人吉三』の「巣鴨吉祥院」の場で、現行普通の歌舞伎の常識とはかけ離れた演技を求められたときの勘三郎のことをいったのだったが、ひるがえって考えれば、つまりはこれも、何をどう演じようと歌舞伎役者が演じればそれも見事に歌舞伎であることの、ひとつの証例であるともいえる。

しかしそれは、当然ながら、昔の白鸚にせよ今の勘三郎にせよ、歌舞伎役者としての揺るぎのない芸と身体を持つ者にして言えることで、野田秀樹の側から言えることではない。演出家の不在ということを、「異邦人」である野田が言ったのは、これも当然のことだったろう。そもそも「演出家」という存在が演劇の世界に登場し、「演出」という営為を始めたときが、「近代演劇」というものの誕生したときであって、野田にせよ串田にせよ、その近代演劇という世界で生きてきた者にしてみれば、「演出家」の存在しない演劇というものが、すでに不可解な得体の知れないものとしか思えないとしても、不思議はない。ここで演劇人としての野田秀樹についての説明を始める必要はないだろうが、その作り出す舞台が、演出という営為に対して最も先鋭な意識を持った演劇人であることは、少なくとも間違いないだろう。

昔から、というのは、歌舞伎が近代劇と競合するようになったときから、歌舞伎にも演出家が必要だという考え方が、識者の間で生まれ、いまも根強く底流している。国立劇場が設立されるに当っても、そのことが強く言われ、「演出」とか「監修」とかいう文字が制作スタッフの中に連なるようになった。現実にそこで行なわれている「演出」が、野田や串田の言う演出とは、むしろ同名異語に近いかもしれないとしてもである。

また一方で、「武智歌舞伎」のような形で、歌舞伎の演出ということがクローズアップされることもあった。武智の場合は、原理主義的ともいえる古典主義の理論・方法論が過激なピューリタニズムのゆえに、戦後という時代の空気のなかで熱烈な信奉者を生んだが、その古典主義的方法と前衛とを円環のように結びつけようとする武智の真意は、その割には、あまり理解されなかったような気がする。武智歌舞伎はいいが、わけのわからない前衛劇みたいなのは困る、という声をよく聞いたものだ。しかしそれでは、武智はおそらく満たされなかったに違いない。ともあれ、その武智にしても、理念や方法論の違いはあっても、歌舞伎を、役者や興行資本の恣意にまかせず、古典としてあるべき形として実現しようということを目指すところから始まっていたという一点では、共通していたのだ。

松本白鸚の場合には、福田恆存という存在が関わっていたが、福田の場合は、歌舞伎そのものの演出に関わるのではなく、むしろ白鸚の方から歌舞伎の埒の外に出て、福田の書いた作品を福田の演出で演じるということに、目指すところがあったように思われる。それは客観的には、歴史劇というものを日本の演劇のなかに確立しようということであったと私は理解しているが、福田の側からすれば、そのときに是非とも欲しかったのが、歌舞伎俳優松本白鸚の持つ芸と身体であったろうことは間違いないだろう。歌舞伎役者がやればどんな芝居をやろと歌舞伎だ、という白鸚の言と、まさしくその一点で両者は重なり合い、折り合ったのだ。それと相似形の図式が、勘三郎と野田秀樹の場合にも描けると考えるのは、自然なことだろう。

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