随談第515回 勘三郎随想(その36)

45.「も」の章 

再び再開、続けることにする。

歌舞伎とは何か、という問いは、歌舞伎の根元を問いつつ、ひとびとに常識や通念の変更を迫っている。およそ、歌舞伎を一度も見たこともない者が漠然と抱いている想像としての「歌舞伎」から、型とか約束事とか呼ばれるものの細部まで通暁している歌舞伎通の考える「歌舞伎」まで、さまざまな「歌舞伎」が、社会のなかに乱立し瀰漫する形で存在している。初心者に歌舞伎とは何かを教える解説書や入門書は、「歌舞伎的」とか「歌舞伎らしい」とおぼしい特徴的な事象を取り上げて説明・解説するが、それは、両刃の剣のように、著者の意図とは裏腹に、歌舞伎を特殊なもの、解説がないと理解しがたいもの、と読者に思い込ませることにもつながってしまいかねない。

花道、女形、隈取・・・という風に、歌舞伎のさまざまな事象を取り上げて初心者に向けて歌舞伎を語る、という方法は、題名も『歌舞伎への招待』という本で、著者の戸板康二がはじめて試みたことだった。それは一九五〇年という終戦後間もない新時代に、それまでの歌舞伎通とはまったく異なる戦後(アプレ)世代(ゲール)の読者に向かって、歌舞伎を客観的に分析して見せるという斬新で、知的で、機知に富んだ、おしゃれな方法だった。『歌舞伎への招待』という題名も、ウェーバーの『舞踏への勧誘』という、クラシック音楽のファンにおなじみの曲名から思いついたものだった。「戦後」という新時代の観客たちは、歌舞伎に対する常識は、従来の歌舞伎通に比すべくもなかった代わり、旧世代の持ち合わせなかったような知識や趣味を、はるかに広範囲な分野にまたがって持っていた。そういう読者を想定できたところに、戸板の卓抜なセンスと独創があったのだ。

だが実は、これには先達があって、戦争前の一九三八年に、その当時最も多数の読者を持つ批評家だった三宅周太郎が、外国人に歌舞伎を紹介するために英文で出版した『KABUKI DRAMA』という本で試みた方法を、さらに洗練された形で進化させたものだった。三宅も戸板も、それまでの歌舞伎通の狭い世界から、歌舞伎を、もっと広い世界へ向けて発信して、幅広い読者を獲得した批評家である。(話が脱線するが、前に述べた六代目菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が撮影した映画も、元来は、海外へ日本の文化の象徴としての歌舞伎を紹介するのが目的で作られたものである。その制作が一九三五年。三宅周太郎の『KABUKI DRAMA』とほぼ同時代である。日中戦争が、十五年戦争という長いスパンで見た場合すでに始まっている時点でのことなのにも驚くが、歌舞伎はこうした形でも、時代と微妙な関わり方をしていたことがわかる。が、いまは閑話休題だ。)

戸板康二がはじめた(開発した、という方がふさわしいかもしれない)こうした方法は、現在もつぎつぎに刊行される歌舞伎の解説書・入門書にも踏襲されている。歌舞伎という現象を目に見える形で具体的に呈示して見せるには、いまなお、これにまさる名案を、まだ誰も思いついていない証拠かも知れない。

一方、歌舞伎をいかにして「保存」すべきか、ということを考えた人々もいた。一九二〇年といえば大正九年だが、当時新進の批評家だった浜村米蔵は、歌舞伎を「正しく保存」するための研究所を設けることを提案している。浜村の説くところによると、この研究所はあくまでも理想的な演劇を実践するためのものだから、まず絶対に必要なのは舞台監督である。舞台監督は光線・大道具・小道具・衣裳・音楽・戯曲・俳優などすべてを支配し、指揮するすぐれた技術家であると同時に思想家でなければならない。劇場は過去の戯曲の住家であり、興行方法は、鑑賞力をもたない観客は一人も内部へ侵入させない一方、あくまでも観客に対して親切であるようにする。劇場は周囲の雑踏から守るために郊外か近県のさびしいところに建て、開場時間を正確にして遅刻した者はいかなる理由があっても入場させず、一切のアルコールを禁ずる。一日の興行時間は三時間ないし四時間とし、長い戯曲を演出する場合は幾日にも分節して上場する。劇場の経済は国家の補助と、富豪が人生になしうる唯一の光栄ある事業としての寄付、それに作者・批評家・選ばれた観客・劇場内部の者などの関係者が応分の努力をしてまかなう。拍手と雑談を厳禁した「深林のような日本戯曲の住家」で、歌舞伎劇の科学的演出をする厳粛な思索研究の場とする・・・・というのだが、これが決して冗談として言っているのではないことは、今日でも、歌舞伎は古典であるべきだという意見の人の話をよく聞いてみると、つまるところは、浜村米蔵が九十余年前に考えたこの「ユートピア劇場」と大差ないところに行き着くのに気がつく。いまの国立劇場にしても、こうした「思想」をどことなく反映しているような気もするし、舞台監督のあり方などは、(一見しての印象とは裏腹に)他ならぬ野田秀樹や串田和美がそれなりに実現・実践しているようにも見える。それもそのはずで、浜村のこうした発想の根底には、前にも言った、「演出」というヨーロッパの近代劇とともに生まれた思想が横たわっているからで、その意味で、国立劇場という形に結実したユートピア劇場と、野田や串田の演劇世界とは、遠く祖先を共通にする間柄ともいえるのだ。(兄弟、というほどではなくとも、孫同士かひ孫同士ぐらいとは言えるだろう。)

だがそれにしても、浜村の唱道するこのユートピア劇場で実際に歌舞伎を見てみたいと思う人は、どのぐらいいるだろう? そもそもこの劇場で、たとえば『助六』の股くぐりなど、どうやって演じ、どういう空気のなかで「鑑賞」されるのだろう?

もっとも浜村米蔵にしても、「保存」といっても、歌舞伎をそのまま冷凍保存してしまおうといっているわけではない。理想の劇場で過去の歌舞伎の本来あるべき姿を研究した上で「保存」し、一方で、つねに流動して止まない歌舞伎を「進行形歌舞伎」として、時代とともに進化させるべきだというのが、その主張するところだった。歌舞伎は興行として大々的にやるよりも、むしろ小規模に、本来のあるべき姿を追求して見せる場であるべきだ、という意見の人もいる。それもたしかに、ひとつの考えではあるだろう。金丸座を知って、これこそが歌舞伎を盛る理想的な器であると考えた識者も少なくない。

しかし、十九歳だった勘九郎青年が、唐十郎のテント芝居を見て、これが歌舞伎だと思ったという時、それは取りも直さず、これこそ歌舞伎が本来あるべき姿、という意味であった筈である。だがその、言葉にすれば同じそれぞれの「歌舞伎が本来あるべき姿」には、なんという隔たりがあることだろう。少なくとも、十九歳の勘九郎青年の胸にともった火は、熱く燃え上がるものであったに違いない。いまも(と言っても、その「いま」はそのまま永遠に冷凍保存されてしまったわけだが)、勘三郎は言う。歌舞伎をつまらない、わからないという奴を黙らせたいのだ、黙らせるような歌舞伎をやりたいのだ、と。こういう演者の思いを、それは間違いだと言えるだろうか? 勘三郎が、自分の考える歌舞伎を盛る器として作った平成中村座もまた、金丸座に発想の原点があることは、勘三郎自身が語っているところである。

歌舞伎とは何か。歌舞伎はどうあるべきなのか。歌舞伎をどうすればいいのか。つまりはいまなお、誰も正解など持っていないのだ。それはおそらく、近代以降の歌舞伎が背負い込んだ、永遠の問いであるに違いない。

「異邦人」であるはずの、串田は言う。「この芝居がどうなったら歌舞伎になるんだろう。どうすれば成り立つのだろう。そもそも歌舞伎らしくする必要があるのか? 歌舞伎らしくってどういうこと? 歌舞伎らしくない歌舞伎ってどういうもの? ・・・もちろん演劇人としての僕個人は、何だってやって良いと思っている。やったほうが良いと思っている・・・・だけど歌舞伎となると、なぜか慎重になる自分がいて、その自分にちょっと戸惑う。そういう自分と折り合いをつけるのに手間取る。なぜかというと、そもそも歌舞伎というものの定義が自分の中で明確でないんだ。」

この、何とナイーヴな正直さ! そうしてその問いは、野田秀樹に尋ねても、おそらく似たような返事が返ってくるのではあるまいか?

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