随談第521回 話題吹寄せ

またまた、掛け流し状態が永らく続いてしまった。3月は遂に更新が一回に留まった。書こうと思うことがあっても時期を失してしまったり、といったことが重なるときは重なるもの。そこで今回は、やや旧聞に属する話題が混じってもご容赦願うこととして、各種の話題吹寄せということにしよう。

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春場所は、鶴竜がめでたく横綱になって(鶴竜が白鵬を破った一番の気迫のこもり方を見ただけで、甲斐はあったといえる。琴奨菊が奮起して両横綱に勝った相撲もいい相撲だった)土俵入りは雲竜型だそうで、不知火型と両方見られるようになるのは結構なことだ。ひと頃は、不知火型というと、両手を広げるのは攻めだけで守りの姿勢がないから異端だの、短命に終わるから縁起が良くないだのと、妙なことが言われたこともあったのが、このところは形勢逆転、二人横綱が二人とも不知火型という珍しい「時代」であったわけだ。

不知火型短命説というのは吉葉山以降、たまたま、老齢で横綱になったために在位期間が短かった例がつづいたからの俗説で、その前は太刀山とか羽黒山とか、40歳近くまで取った大横綱が不知火型だった。太刀山はもちろん知る由もないが、羽黒山のは実に見事なものだったのを子供心に忘れない。ついでだが、日馬富士の土俵入りはリズム感と流れがあってなかなかいいが、白鵬のは、ひとつの所作ごとに間が途切れるのが気になる。双葉山の映像を見て研究したのだそうだから何か本人なりの理由があってしているのだろうが、何だか次の動作を忘れて、思い出しながらやっているみたいに見えることがある。

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話題の遠藤を白鵬が退けた一番で、立会いに白鵬が張り手を喰らわせて相手の出足を挫いた取り口へ、新聞の投書などでも非難が続出している。そもそも、近年では張り手という技に対する暗黙の禁忌という感覚が忘れ去られて久しいから、おそらく白鵬にしてみれば、初顔合わせの遠藤に対して横綱の厳しさを遠慮会釈なく示してやることが大切だと考えてしたことなのだろう。新人相手でも容赦なく張り手を使うことが、横綱としての権威保持につながっているわけだ。しかし張り手に対する禁忌は、むしろ相撲界あるいは力士たちの間でよりむしろ一般の間に今も伏流水の如くに伝承されていることが、はしなくも今度の白鵬-遠藤の一戦を機に、表に現れたと言える。もっとも、白鵬-遠藤戦当日の放送でも解説の舞の海氏が、横綱らしくきちんと受けて立ってもらいたかったと明言したが、大砂嵐と安美錦の取組でも、大砂嵐の張り手の連発に北の富士氏が強い口調で注意を促していた。つまり彼等の世代までは、(既に日本人の横綱でも立会いに張り手をかます取り口は珍しくなくなってはいたが)張り手への禁忌は生きていたことが分る。

張り手というと、かつて、前田山という大関が、同じ場所で双葉山と羽黒山を張り手まじりの突きで連破したというのが、それから終戦を距て何年も経った我々の少年時代までも語り伝えられていたものだった。前田山は後に横綱になり、本場所を途中休場中に日米野球(戦後初めて来日したサンフランシスコ・シールズという3Aのチームだった)を見物して問題となり詰腹を切らされて引退したが、高砂親方として、二代の朝潮だの高見山だの異色の力士を育てた。高砂部屋というのは近年の朝青龍に至るまで、波乱含みの力士が多いのも、その淵源は前田山の張り手にあるような気もする。

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波乱といえば、まったくの他人事ながら、今回の小保方騒動というものの気色の悪さというものはない。大発見をした割烹着の理学博士で売り出したのも、形勢芳しからずと見るや「体を成していない論文」を書いた未熟な研究者とこきおろしたのも、不正と捏造の単独犯と決めつけたのも、すべては理研の理研による理研のためのPRであり保身のためであったことは、既に誰の目にも明らかだが、いわゆるオトナ社会のおぞましさというものをこれほど赤裸々に見せてしまったところが、学者集団ならではのある種の「バカ正直さ」というものだろう。つまりは、組織というものの論理と構造というものが如何なるものか、というオハナシなわけだが、「大発見」も、おもしろうてやがて哀しき一場の夢ということか。

ところで中山千夏といえば、昭和30~40年代に芸術座の東宝現代劇の芝居で名子役として売り出したかと思うと、70年代のいわゆる政治の季節にあっという間に政治運動にのめり込み、運動家に転身、その後永いこと、私などの耳には音沙汰もなかったのが、つい最近、東京新聞の連載コラムの執筆者の一人になって、なかなか読ませる文章を書いている。その中山氏が、今度の小保方一件に関して書いていたコラムが、一番、機微をついているかに思われて面白かった。

かつてまだ20代だった彼女(当時、誰もが知る人気タレントだった)を政治集団のリーダーに担いだ男たちがいたように、今度の一件にも「彼女」を担いだ男たちがいるわけで、中山氏が幸いだったのは、氏を担いだ男たちが、形成どんなに不利になった時も少なくとも自分たちが担いだ神輿である中山氏を放り出すことだけはしなかったことである、どうか小保方氏を担いだ男たちもそうであることを願う、という趣旨であった(と私は読んだ)。「侠気(おとこぎ)」というタイトルだった。肝心要は、「彼女」を担いだ面々が、科学研究の厳しさなるものを楯にとり隠れ蓑にして、口を拭ってしまわないことであろう。つまり、あの方々に「おとこ気」がどれだけあるか、ということであろう。

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チャンネルNECOも日本映画チャンネルも、ここしばらくゆっくり見ている暇もなかったが、このところようやくひと息ついたのを幸い、60年ぶりの珍作品の数々にめぐり会うことが出来た。若き日の岡田茉利子主演の『芸者小夏』だの、香川京子が感化院の先生になり、売出し前の池内淳子や三ツ矢歌子が生徒になる『何故彼女らはそうなったか』だの、どれも昭和30年前後の作品だが、浪花千栄子や沢村貞子や、まだ純然たる脇役者だった森繁久弥が映画的演技としてやたらに巧いのに思わず笑ってしまう。ところでその中で、昭和32年の日活映画『川上哲治物語・背番号16』というのにめぐり会えた。

監督滝澤英輔といえば、前進座の『戦国群島伝』だの硬派の問題映画もたくさん撮った名監督列伝中のひとりだが、昭和32年の正月映画としてこの作が封切られた時、長嶋茂雄はまだ立教大学の3年生だったことになる。つまり二年後に巨人の4番打者の地位を長嶋に譲る前の、まだ川上が球界最大のスターであった最後の日々に作られた作品なわけで、前にも書いたが、この時点での「背番号16」は日本野球界最大のシンボルであり、川上は「カワカミテツハル」などではなく「カワカミテツジ」だった。(現に、映画の中でもナレーションがはっきりと「テツジ」と言っている。)川上自身も出演してセリフも多少あるが、出演場面のほとんどは、戦後のラビットボール(つまりよく飛ぶボールである)使用の生み出したホームラン量産時代に「弾丸ライナー」を身上とする川上は乗り遅れ、長期の不振にあえぐ中で黙々とバットの素振りに打ち込む、それを妻役の新珠三千代がはらはらしながらもじっと見守る、というもので、やがて球界最初の二千本安打を達成、というのが大団円となる。

じつは川上の出演場面は戦後以降の場面で、映画としては、熊本工業から巨人軍の新人時代の前半の方が真っ当な場面ということになる。若き日の哲治青年を牧真介(などという俳優がいたっけ!)、親友の名捕手吉原を若き日の宍戸錠(まだ豊頬手術など施していないいかにも純粋な青年らしかった頃の、何とも懐かしい細面の顔で出てくる)、藤本監督が二本柳寛、両親を河野秋武と高野由美等々、やや渋いがまずまずの出演者を揃えている。(高野由美は民芸の新劇女優だが、かつての六代目菊五郎の作った俳優学校の出身である。)

しかし何と言っても、今となってみると圧巻なのは、映像として何度も写される往年の後楽園球場のたたずまいである。グラウンドも狭く、いろいろ難点はあったものの、日本のプロ野球の球場としてあれほど似つかわしくも雰囲気のあった球場はなかったといまでも思う。もっともこれは、東京ドームになってからしか知らない方々には、言っても詮無いことには違いない。神宮休場を私はこよなく愛するが、しかしあの球場はやはり本来学生野球のために作られた球場であることは、良し悪しとは別に、否定し切れないものがあると思う。

その後楽園球場のスコアボードに、二千本安打を達成寸前の巨人のラインアップが何度も画面に映し出される。といっても、四番の川上を中心に、二番の坂崎、三番の宮本、五番の岩本、六番の藤尾とだけしか出てこないのだが。(そういえば、坂崎はつい先ごろ、訃報を聞いたのだったっけ。)

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