随談第523回 近頃人間模様-カワチノカミ事件と小保方騒動-

ボクチャンみたいな政治家がトップの座に坐って、尊敬するお祖父チャンみたいなテンカビトになりたいなー、と支持率の高い今のうちに、オタク式勉強で習い覚えた「趣味の政策」を実現しようと躍起になっている(オヤ? どこの国の話をしているのだっけ?)のと関係があるのやらないのやら、このところ、ひとつがすめばまた一つ、この世のタガが外れたかのように、ケッタイな出来事が次々と浮かんでは消えてゆく。まあその中でも、ケッタイさに於いて、浮世を映す鏡とも、面白うてやがて哀しき人間模様が透けて見える出来事といえば、差当りこの二件だろう。

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柳生但馬守と書いてヤギウ・タジマノカミと読み、柳沢出羽守と書けばヤナギサワ・デワノカミと読む。だから佐村河内守とあればサムラ・カワチノカミと、おのずから読んだ。

それにしてもこの現代に河内守って何だ、というのが、あの「現代のベートーベン」なる難聴の作曲家を知って最初に思ったことだった。知って、といっても、あの荘重なるNHKの特集番組で見た「現代のベートーベン」以外のことは全く知らない。だから問題の、彼が作曲したことになっていた音楽そのものについては、あの番組に流れていた断片以外、聞いたこともない。(あ、それから高橋大輔選手のフィギュアの演技の時と。)

やがて、なんとも風采のあがらない、胃弱で胆力の乏しそうな人物が現われて、あれは自分の作曲した曲だと名乗り出ると、今度は強面風のスタイルをやめて長髪を切り落し、サングラスを取ったカワチノカミ自身が出てきて、謝罪だか反論だかどちらともつかないようなことを言い出すに及んで、興味は一気にしぼんだ。話が見え透いてしまったからである。

そもそも、ゴーストライターによる代作などというものは、どこまでが代作でどこからがそうでないか、わかったものではない。世の有名人の自伝めいた文章の多くは代作というなら代作であるに違いない。書いた者と書かせた者、あるいは書いてもらった者、当事者の間で納得し合っているか否かがすべてを決める。カワチノカミ氏の場合も、ほどほどのところで留めておいて、然るべき報酬をゴースト氏にきちんと納得ずくで渡していれば問題はなかったのだろうが、「現代のベートーベン」となってクラシック界の鬼才として社会に認知されようと欲を起したために、ゴースト氏からすれば、そりゃアないよということになったのだろう。

作曲業だの文筆業だのというのは、世間に認められるようにならない間は、これという社会的なポジションも、確かな収入もあるわけではない。かのゴースト氏も、初めは、まあ悪くないアルバイトとしてやっていたのに違いない。(私なども昔は、著名な翻訳家の下訳を散々やったものだ。親会社と下請け業者の関係とまったく同じである。)

残る問題があるとすれば、作曲家サムラゴウチ・マモルなる者が作曲したとされる曲は、どういうことになるのだろう?ということだが、名作説、駄作説、とりどりあるようだが、それもこれも、くだんの曲の世評がどれだけ高くなるか、それ次第というわけか。万が一、百年後にも残る曲があったなら、かのゴースト氏は大作曲家として後世に名を留めることとなり、カワチノカミの一件は、名曲にまつわる珍エピソードとしてクイズ問題のネタか何かとして、これも後世に伝わらないとも限らないが、そもそもそれだけの曲なのかどうか、私には何とも言えない。

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カワチノカミの一件と小保方女史の騒動とは、本来、同日に語るべき種類のものではない筈だが、世間の耳目を惹く現象としては共通するものがある。

1. 耳の聞こえない作曲家の名曲と、割烹着を着た女性理学博士の大発見。片方はそれで自ら売ろうとし、片方は理研という権威が組織のPRのタレントとして使おうとした。(スンナリいけば、理研も小保方女史も、双方メデタシメデタシ、ウィンウィンの形で落着するはずだった。割烹着はちょっと悪ノリがすぎたとしても。)

2. 売出しに成功したかと見えたところで、どちらにも、なんともケッタイな謎が露呈した。侃々諤々、甲論乙駁をやらかすのにこれほど格好の題材は、そう滅多にあるものではい。まず理研のエライ人たちが尻尾を切り捨て、イクラナンデモソレハナイデショとご本人が登場し、いつまでも頬かむりをしていられなくなって、彼女を担いだセンセイが登場する。しかしその彼女が頼りにしていた筈の秀才教授は、案の定、3時間半に及ぶ記者会見を、要するにワタクシは手を汚していませんと、考え抜いた台本で弁舌さわやかに切り抜けると、ミソギをすませたかのように逃げてしまった。げに頼み難きは人ごころ、である。

3. カワチノカミ氏の一件の方は既に勝負あっただが、小保方女史の一件の方は、STAP細胞という錦の御旗が掲げられている以上、無碍にはできないから、その真偽をめぐって、まだ当分は、ジャンヌダルクか女天一坊か、ドタバタはまだ当分、続くことになる。未熟な研究者のお粗末なやり方と冷笑していたエライ人が同じ墓穴を掘っていたことが分ったり、「悲喜劇・理研村騒動記」のようなドダバタ劇の様相も呈してきたが、理研をやめさせられてハーヴァードの研究所なりどこかへ流れて行ってから、一発大逆転、やっぱりありました、などということに万が一にでもなったら、現実は芝居などよりはるかにオモシロイということになるだろう。

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芝居といえば、つい先夜、入谷の入口にある小劇場でミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』という芝居を見た。1925年、ロシアに社会主義政権が出来て数年後という時代に書かれたこの劇は、常識的には、ソヴィエト革命後の社会の風刺劇ということになっているが、この際そういうことはどうでもよい。核となるのは、ソ連政権下のある医師が、飲んだくれて野垂れ死にしたどうしようもないダメ男から、脳下垂体と睾丸を摘出して、一匹の野良犬に移植すると、やがて犬が人間と化して、革命思想を叫び出したり、とんでもない言動を取り始め、生みの親の医師と助手が振り回されるというグロテスクな物語である。同じ犬が人間になる話でも、落語の『元犬』なら笑っていられるが、こちらのロシア版『元犬』は、うっかりすると夢にでも見てうなされそうなコワイ話になっている。

最後には、医師と助手が、再び男に手術を施して犬に戻してしまうのだが、これで本当にヤレヤレメダタシということになるのか、芝居はここで終りになるが、この元犬男は、一旦はちゃんと(医師の私生児として)戸籍に登録され、ナントカ委員会のちょっとした幹部にまで成り上がったりもしたのだから、そういう人物?が急にいなくなったとして、医師の弁明がどこまで社会的に通用するか、実は知れたものではない。現に医師は、犬に戻るための施術の記録は失われてしまったという、やや苦しい弁明もするのだ。(ア、オボカタだ、とまことに申し訳ないことだが、医師のこのセリフを聞きながら思い出してしまった。)

そうなのだ。小保方女史はすこしも嘘などついていないのに違いない。犬からヒトを作り、また犬に戻してしまった医師のプレオプラジェンスキー教授が「嘘」をついていないように。だがそれを、どうやって社会に信じてもらえばいいのだろう?

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