随談第531回 今月のあれこれ

今月の秀山祭で『法界坊』に『絵本太功記』というのは、ちょっぴり異色のお膳が出た感じだ。輝虎配膳ならぬ播磨屋配膳。もっとも私は越路ではないから、せっかくのお膳を蹴飛ばしたりはしないけれど。

『絵本太功記』は吉右衛門としては今度が三演目、それも一度は大阪でだから見ていないし、残るただ一度の所演も平成4年というひと昔以上の昔、吉右衛門の丸本時代物としてはかなり珍しいものだ。他の諸優の光秀に比べ、顔のこしらえが大時代で、顔面から血の気が引いたかのように白い顔なのが特徴的だった。以来、20余年ぶりという上演は、何か理由があるのだろうか?(初代も光秀というと専ら『馬盥』の方で、『太功記』の方はあまり好きでない役の内に数えている。)今度光秀も前回同様、やはり顔面蒼白といった感じで凄愴の気がひと際強い。いいのだが、ムムム、という感じでどこか一点、吉右衛門と反りが合い切らないものがあるような気もして、じつはまだ急所を探り当てられずにいるのがもどかしくてならない。これが法界坊だと、法界坊の愛嬌と吉右衛門の芸の愛嬌は反りが合う上、「三囲土手」になってにわかに法界坊に陰惨・強欲の気が現われて野分姫を殺しにかかる「矛盾」も吉右衛門の芸の振幅の間に納まるのだが。結局光秀は、吉右衛門の時代物としてややユニークな一篇というべきか。

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『太功記』で米吉の初菊がよく見かける鴇色の衣裳でなく赤姫の姿で出る。それだけのことで俄然、舞台の闇が深くなり、単に時代物らしいというだけでなく、みすぼらしい百姓家に大時代な姿をしたさまざまな人物が登場する夢幻性が、この芝居の悲劇性を深める上で効果的である。『鎌倉三代記』も同じ趣向だが、だからこういう芝居は時代に、時代にと芝居をしないと面白くならない。それぞれの人物が皆、役柄のツボにはまっていることがそのためにも肝要で、その意味で今回の配役は悪くないが、一番のヒットは又五郎の正清かも知れない。東蔵の皐月に魁春の操というのも、いまや貴重品だ。

米吉の初菊の初々しさがいかにも初菊だが、同じく赤姫姿で登場する『菊畑』にしても、時代物の衣装に負けていないのは頼もしい。となると、さて染五郎が『太功記』では十次郎、『菊畑』では虎蔵と、それがこの人本来の役どころである筈の時代物の二枚目の役で出てくると、珍しい、とうっかり言いそうになるほど珍しく見えるのを、どう考えればいいのだろう? 十次郎はともかくとしても、虎蔵のあの極彩色の衣裳がしっくり身につかない。(たしかにあれは、なんとも不思議な衣裳であるには違いない。)初役かと思って上演記録を確かめると、経験してはいるようだ。どちらも米吉とカップルの役だが、それがいかにも好一対のカップルに見える。もちろん役の上では好一対の役には違いないが、中堅陣のリーダー格たる染五郎が、今度初めて本格的な役らしい役をつとめている米吉と、ストレートに好一対に見えるというのは、さてどういうものだろうということである。

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染五郎はまた、『菊畑』では虎蔵と智恵内、『御所五郎蔵』では五郎蔵と土右衛門と、松緑と役の上でつっかい合っているが、どちらも、ストレートな共感をドラマの内容に求めようとしても難しい狂言である。と、そんなことは二人とも、頭では理解しているようだが、それと、また実際の舞台とは別物だから、そこがなかなか難しい。

もっとも、今度の『菊畑』は、その意味で皆、よく理解してつとめているから、実に明快である。それが証拠に客席の反応も、ちゃんとあるべきところで手応えがある。若者たちの一行が実習先で快適なドライヴを愉しんでいるような趣きもあって、これはこれで悪くない。歌六の鬼一は、学生たちの実態をよく把握して噛み砕いた明晰な講義をするので、あの先生の授業は分かりやすいと評判のいいプロフェッサーのようでもある。

『御所五郎蔵』という芝居は、本来『浅間嶽』という世界を背景に凝りに凝って作ってあるものだから、いつもの三場だけで見ると、よほどワッとならないと、時代世話の七五調のdecorativeなセリフが延々と続くのに耐えられないことになる。同じ黙阿弥でも「五人男」や「三人吉三」とは似て非なるものなのだ。染五郎にしても松緑にしても、とくに拙いわけではないのだが。もっとも、前代のエライ人達のことを思い出しても、この芝居で面白かったという思い出はあまりないのも事実だ。

土右衛門という役は、白鸚がかつて「言っていることをよく読んでみても、どうも大した奴じゃないね」と言っていたのを妙な共感を以って読んだ覚えがある。亡き先代権十郎のが、あの扮装に敵役の色気が滴るようで素敵だったのと、国立劇場で勘彌と延若で『曽我綉侠御所染』として通しで出したとき(「時鳥殺し」で初日にはほとんど無名だった17歳の玉三郎が、楽日にはスターとなっていたという、スター誕生伝説を作ったあの時である)の延若のが、権十郎の錦絵美とはまた違った男の色気が素敵だったのと、まずこの二人が何と言っても、私の中での別格である。

今度は、その前の松島屋爺孫共演の『連獅子』がお目当てのお客が、それだけ見て帰ってしまうので空席が目立つという噂を聞いたが、真偽は知らないがそうだとすれば、ちょっと気の毒だ。『連獅子』は千之助にとっては、この体験がさまざまな意味で、生涯のよき体験となることだろう。

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演舞場の舟木一夫公演に松也が出て『八百万石に挑む男』という天一坊の芝居に客演している。かつての東映時代劇映画爛熟時代に、市川右太右衛門と中村嘉葎雄(などという難しい字はその頃は使っていなかった。賀津雄と平たく書いていた)でやった橋本忍のシナリオの脚本化というが、ちと物々しいが上手くできている。額田六福の書いた『天一坊と伊賀亮』というのを、十三代目仁左衛門の伊賀亮、勘彌の吉宗と天一坊、八代目三津五郎の越前守という、往年の青年歌舞伎の同窓会みたいな顔合わせでやったのを見たのを思い出した。戦後間もない昭和23年に阪妻の伊賀亮に勘彌が吉宗役で映画出演した、伊藤大輔監督の『素浪人罷り通る』という映画を(もちろんリバイバル上映で)見たことがあるが、どれも共通するのは、天一坊が本当に吉宗の子であると知りつつ天下の安泰のため偽物として密かに追放し、伊賀亮だけを処罰するという筋になっている。この前勘九郎たちがコクーンでやった「天日坊」にしても、みな大元は黙阿弥であるようだ。

それにしても、その数日前に明治座で見た北島三郎の公演にしても(こちらは『国定忠治』だった)、昔ながらの時代劇らしい時代劇というのは、かつて「歌手芝居」と呼ばれて蔑視さえされたこういう人たちによって、わずかに支えられているわけで、かつて錦之助や橋蔵が映画に「走った」(という言い方をされた)昔とは、まさに今昔の感という他はない。(今度も林与一が越前守で出ているが、関西歌舞伎ならぬ大衆時代劇の「最後の人」になるというのも不思議な巡り合わせというべきか。)

それにしても、当の「歌手芝居」という言葉もいまや死語と化した感があるが(北島三郎は今回が最終公演と謳っている)、第二部のヒットパレードというのが私は結構好きで楽しんでいる。北島サブちゃんは、ああいう感じの芸能人が大家になるとよくあることだが、人生とか何とかの道とかを唄うということがどうしても多くなって、「山」だの「川」だのと象徴的な題をつけた道歌のような歌を好んで歌う中に、「はるばる来たぜ、はーこだてー」などというのが始まると、こちらは逆に越し方に思いを馳せたりして、オオ、いいなあ、と思ったりする。舟木は、もともと、そうした勿体ぶりを照れている気配があるのが私の好みに合うのだが、それでも、「銭形平次」だの「高校三年生」などが始まると(当時は愚劣な歌だと思っていたものだが)、なんともいえずいい心持ちになる。これはおそらく、流行歌(とか歌謡曲という言葉も死語になったが)というものの持つ、最大の価値であり意味であり効用であるだろう。それにしても(前にも書いたが)舟木がファンが客席から手渡しする花束やプレゼントを、歌いながら片端から受取ってゆく手際はまさしく名人芸というべきで、それを見るだけでも価値がある。

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新国立の『三文オペラ』を見た。なかなかよかった。新国立近来のヒットと言っていい。何より演出に衒いのないのがいい。本家本元のブレヒト大先生の前で異化作用よろしくハッタリ沢山の衒った演出をしても始まらないと観念(したのかどうか知らないが)、近頃よくある、演出家がしゃしゃり出て事壊しをするたぐいの舞台でなかったのが何よりである。

近年、原作のジョン・ゲイに基いてミュージカルにした『ベガーズ・オペラ』が世に出て、元のこちらの方が面白いではないかと思ったりもしたが、やはりブレヒトはブレヒトで面白いことを再認識できたのは何よりであった。

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シェイクスピアのフォルスタフを文楽にした『不破留寿之太夫』なる新作文楽が9月公演の第3部として初演された。この前の『テンペスト』に比べれば、はるかによく出来ている。願わくは、一部インテリ人士のスノビズムを満足させて終わるようなことにはなってくれるな、というのが感想である。

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しばらく前にローレン・バコールが死に、今度山口淑子が死んだ。もちろん、活躍した時代が重なるという以外、両者に何の関係もないが、受け取るこちらには、こちらの人生と重なるものを通じた思いがあるのも、また当然だろう。それにしても、訃を伝えるテレビから『夜来香』の歌声が聞こえて来るだけで何とも言えない心持ちになるが、これが『蘇州夜曲』でなく『夜来香』であるところがわれわれの年代故であって、もう「李香蘭」ではなくなってからの彼女が「時代の重なり合った」同時代人なのである。

(生まれが1920年、大正9年という。してみると、雀右衛門と同年だったんだ!)

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朝ドラの『花子とアン』がなかなか面白いので、途中からはなるべく心掛けて見はぐらないように心掛けているが、二つ、気になることがある。

(その一)、冒頭に唄う主題歌の歌詞がどうしても聞き取れない。ああでもあろうか、こうでもあろうかと類推しながら耳をすましても、途中の何カ所かで見当がつかなくなるのだ。原因の一つは、歌い手の発音・発声と息継ぎにあるらしいが、もうひとつには、どうも歌詞そのものにも、私などの理解の及ばない言葉遣いや論理(というのも大袈裟だが)の飛躍というか整合性に原因があるらしい。

歌詞の意味と息継ぎの関係というのは昔からよく問題になって、『君が代』でも、「さざれ石の巌となりて」という処で、あの節だとどうしたって「さざれー・いしのー・いわおとなーりてー」と唄いたくなる。これは作曲と歌詞の整合性に難があるからで、ひと頃、大相撲の千秋楽などで自衛隊の楽隊が国歌斉唱の伴奏の際、「いーしーのー」というところでドンドンドンと三つ、太鼓を叩いていたものだったっけ。でもあれは「さざれ石」が「巌」となるのでなければ、意味をなさないわけだ。

と、『君が代』まで引き合いに出したが、「花子のアン」の歌詞、最終回までには聞き取れるようになって、あゝ、そういうことだったのか、と得心できるようになりたいものだと思っている。

(その2)全体としては時代の感覚もかなりよく出していると思うが、よくあることだが、電話が出てくる場面になるとどうも引っ掛かることが多くなる。明治の末か大正の初めごろ、東京から博多まで直通電話が通じたのだろうか、とか、戦前の一般家庭で、卓上の電話機というのは、ごくごく一部にしか普及していなかったのではあるまいか、とか。私が実際に覚えているのはもちろん戦後だが、一般家庭はもちろん、そこらの事務所や学校などでも、壁掛式が普通だった。(小津安二郎の『東京物語』で原節子が勤め先の事務所から電話をする場面を思い出してみれば、誰しも納得がいく筈だ。)卓上の方が多くなったのは、多分、昭和30年代以降だろう。

それよりなにより、そもそも、大概の家で電話を持つようになったのは40年代以降で、それまでは、同級生で電話のある家など、一クラスにせいぜい3,4人もいればましな学校だった。近所に電話のある家があると貸してもらう(つまり、使わせてもらう)だけでなく、知人友人にもその家の番号を教えておいて、掛かってくると「○○さん、電話ですよー」と呼んでもらう。名簿や名刺の電話の欄に(呼)として、呼出しをしてくれる他人の番号を書いて当り前の顔をしていたのだから、いま考えると不思議なようなものだ。(『呼出電話』という新作落語があって先代の三遊亭円歌の十八番だった。)

30年代、いや40年代になってもしばらくは、23区内から市外に(たとえば杉並区からお隣の吉祥寺市に)電話をする場合、赤電話と称する電話機を使うのに、先ず店の人に言って鍵を開けてもらい、話をすませて一旦、受話器を置いてしばし待っていると、チリリンと電話が鳴って、電話局からかかってくる。これに応待するのは赤電話を設置している店の人で、その人に電話局の係が「ただいまの通話料金はこれこれ」ということを(多分)通知すると、今度は店の人が利用者であるわれわれに「今のは幾らいくらです」と教えてくれるので、それから店の人に料金を払う、と、これだけの手間ひまがかかったのである。公衆電話から長電話をする場合には10円玉をジャラジャラ用意しておくとか、いまからみれば嘘のようなことが、ついこの間まで普通だったのだ。山梨の花の実家に電話が引けたのは、もしかすると、村岡花子さんの生前ではなかったかもしれない。

脚本を書く人も、演出をする人も、スマホ世代に育った人は気をつけないとね。

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