随談第540回 三津五郎追悼(訂正・修正版)

三津五郎の葬儀から帰ってこれを書き始めている。会葬者の列に並んで、しばらくはコートを脱いだままでいたほど、暖かな冬晴れの穏やかな午後だったのが、三津五郎にふさわしい。大佛次郎に『冬あたたか』という題の一冊があるが、そういえば三津五郎の最後の歌舞伎座出演となった舞台が、昨夏の納涼歌舞伎での大佛次郎作の『たぬき』だった。大佛次郎の、温かい中に辛口の文体の感覚が、三津五郎の明晰なセリフによってよく活きていたのを思い出す。

もっとも、当日は月に二度通っているコンディショニングに行く日だったので、それをすませた後、喪服に着替えに一度帰宅したりしたので、開始時刻に間に合うようには到着したのだが、斎場に着いた時はすでに会葬者の列が延々と連なっていて、はるか彼方の斎場で葬儀が始まっても、どなたがどんな弔辞を述べたのかも分からず終いだったのは残念である。


そのためもあってか、いまなお、その死が実感としてピンと来ないでいる。葬儀に出ることで、何らかの意味でひとつのけじめがつけられるかと思ったのも、達せられなかったことになる。もっとも新聞に載せる追悼文は知らせのあったその夜の内に書いているが、それと、自分の中の思いとが、まだひとつにつながらない感じが、ある種のもどかしさを抱かせる。(菊五郎の「名弔辞」のそれもほんの一部を聞いたのは後日のテレビ番組でだった。姫路城や彦根城もホステス嬢やキャバクラ嬢も愛した君、というジョークもさることながら、巳之助をいい役者に育てて見せるという言は、男と男の約束というものだろう。また巳之助が、父は誰にもできる小さな努力を誰にも出来ぬほど積み重ねた人と語ったのは、父譲りの聡明さを思わせる名言である。)

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三津五郎と最後に会って言葉を交わしたのは、おととしの一月末、三津五郎が毎日芸術賞を受賞した折の、受賞式後の立食パーティーでだった。もうひと月が経つのにいまだにピンとこないんですよ、とそのとき三津五郎が言っていたのは、旧臘の勘三郎の死のことだったから、思えばその時点では、團十郎はまだ存命だったことになる。それからほんの数日で月が改まってすぐ、團十郎逝去というドえらいニュースが飛び込んできたのだった。あれからちょうど満二年、その間に歌舞伎座開場こけら落しが挟まるのだから、後世の史家を待つまでもなく、歌舞伎にとっては激動の三年間だったことが改めて思われる。

團十郎が亡くなった折、歌舞伎は支柱を失ったと私は書き、語りもしたが、それは半面、象徴としての意味合いで言ったことだった。團十郎の芸と存在は掛け替えがないが、菊・吉・仁・幸、現に屋台骨を背負っている人がいないという意味ではない。本丸に直撃弾が落ちた、とたしかあの時言ったのだったが、本丸がいま落城したというわけではない。

今度の三津五郎の死は、ある意味では團十郎の場合以上の直撃弾とも言える。但しそれは、現にいまこの場に炸裂した、という以上に、近い将来を展望したとき、その甚大さが改めて痛切に思い知らされる、という種類の痛手といえる。勘三郎と三津五郎が中核となって次代の歌舞伎を支える層が形成される筈の、その中核となるべき二人が二年余の間に失われたわけで、時蔵や芝雀といった同年の女形達から、福助、橋之助といったそれに続く年配の人びとがひとつの時代の層を形成すべき核心がなくなってしまったことになる。(染五郎とか猿之助とか、あるいは海老蔵といった更に若い世代の諸優の活動の在り様には、あきらかに勘三郎の影響が読み取れるが(ときには「真似」とすら言ってもいいかのように)、実は、そうした目につきやすいレベルのことよりもっと実質的なところにも、二人の影響力は及んでいると思われる。だがそれが実際の形を結んで現われるのは、もう少し後になってからであろうし、上の世代の諸優の場合とは意味合いも、形も異なるものだろう。)

私が知るようになって以来の戦後の歌舞伎の在り様を振り返っても、個々の俳優たちの芸の上の実力や人気だけではどうにもならないものがあるのは否定の仕様がない。時の運でもあり、そういう立場に立った者の意思の力にもよる。芝翫も雀右衛門も、「谷間の世代」などと一括りに呼ばれた時代があった。富十郎を含め、歌舞伎座建て替えのための三年間に亡くなった三人の長老たちは三人とも、そうした「冬の時代」を通り抜け、個としての芸の力によって晩年を飾った人たちだった。

勘三郎と三津五郎という次代の支柱となるべき存在をあれよという間に失って、歌舞伎界の未来図がこれからどういう風に描かれてゆくのか、予測は、出来るようでもあり、混沌としているようでもある。

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だが実をいうと、こうして書き進めがら私の内心の苛立ちはつのる一方である。どうして私はいまこんなことを書いているのだ? 三津五郎を思う内心の本当の気持ちは、こんなことにいつまでもかまけていたいのではない。いま私が書きたい、書いておきたいのは、こんなことではない、という思いが、キーを叩く傍から私を駆り立てる。

素晴らしかったあの舞台、法悦を覚えながら見た踊りの、あの無比の間のもたらす快感、差す手引く手のあの一挙手一投足のもたらす豊饒な歓び。私のまず書きたいのは、言いたいのは、何よりもそういった事どもではないのか? たとえば『喜撰』の、たとえば『靫猿』の、あの法悦とか、『勧進帳』の弁慶や仁木や熊谷を見事に演じてそれまで勝手に作り上げていたイメージを見事に覆してくれた驚きと喜びとか。それからあの大和屋一流の、たとえば『供奴』、たとえば『大原女・奴』『山帰り』といった小品の踊りの数々が、代々の三津五郎たちの追憶へと誘ってくれる嬉しさ。(五年前、大山の阿夫利神社の能舞台で奉納のために踊った『山帰り』は、残暑の気配を留めながら秋気の中に暮れなずむ中で見たのだった。あの美しさは何ものにも代えがたい、いまとなってはなにものにも代えがたい思い出である。)

それらは皆、すでにいまの時点で他に真似手のない高いレベルに達していたにも拘らず、これからの更なる熟成の日々にもっと高い境地、もっと熟した味わい、さらに磨かれた練達の技芸を以て、まだこれからの永い日々、我々を愉しませ、なごませ、喜びを与えてくれるものと、誰もが、信じて疑うことのないものであったのではなかったか。三津五郎を送る身になった今、本当に書いておきたいのは、書いておくべきなのは、何よりもそういうことではないのか? 

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最後にひとつ、私事にからめた逸事を記しておこう。私にとっても「私事」だが、三津五郎にとっても「私事」に関わる部分もあるのであまり大ぴらに言うのは遠慮すべきだと思ってきたのだが、「話題」としては世間に知られていることなので、書くことにする。20世紀の最後の年である2000年7月と言えば、当時まだ八十助だった彼の身辺が一番かまびすしく騒がれていた時期に当る。私の出した『21世紀の歌舞伎俳優たち』という本のための出版記念会が催されたのはそういうさなかだったが、第一線の役者たちの小論を集めた本の内容から、幾人かの優たちが出席してくれた中に、八十助もいた。というより、じつは八十助が出席できる日を選んで日取りを決めたのだった。(大阪松竹座に出ていた勘三郎は、その日が楽日だったので、祝電を送ってくれた。もちろんまだ勘九郎だった頃である。)それぞれに短いスピーチをしてもらったのだが、おのずと八十助に注目が集まることになる。「今は世紀末です」と八十助は切り出すと、すぐに続けて言った。「私の人生も世紀末です。」覚えず、満場がどっと笑う。と、ひとつトーンを上げて、続けた。「しかしやがて年が明け、新しい世紀を迎えると共に、私は十代目三津五郎に生まれ変わります。」もう後は、割れんばかりの拍手と、それを包む朗らかな笑い声だった。

それにしても、とさる先達の方が後に私に語った。ああいうさなか、彼はよくも来てくれましたね。何も無理をする義理はなかったでしょうに、と。つまりこの人は、八十助の誠実、を指摘したのである。

このときのスピーチの中でも自ら言っているように、既にこの時より先に、翌年2001年一月に、八十助から十代目三津五郎を襲名することは既定の事実となっていた。私はこの本の「坂東八十助」論の結びに、この本が出版されて半年後には三津五郎と名前が変わることになるが、敢えて「八十助」という記述のままにすることにする。この本に書いたのは、21世紀を目前にした「今この時の八十助」の姿であり、それはやがて世紀が変り、三津五郎と名を変えても意味を失うわけではないからだ、そうして将来、何年後かの「その時その折の三津五郎」の姿を、私は「十代目三津五郎論」として書くだろうと結んだのだったが、それは実現する機会を永遠に失うことになってしまった。それを書くのはまだしばらく先のことだとばかり思っていたのである。

先に私は、中村勘三郎論を書くことを本人に約束し、実際に物しながら、その死によって出版する機会を得ないままにしてしまった。いままた三津五郎とも、約束を果たさないままになってしまった。しかもこちらは、まだ一字も書いていないままである。

まさに光陰は矢の如く、人の命の儚さを思わないわけにはいかない。

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