随談第541回 今月の舞台から

歌舞伎座の『菅原』の通しは、仁左衛門の菅丞相が、おそらくこれが絶後かと思う気持が一入の思いにさせる。病後のことでもあるし、もしかすると年齢のこともあるかもしれないが、いままでに比べると心なしか輪郭が少々細って、前回あたりのふくよかさをベストとすれば、よく言えば凄愴の気が一段と深まったが、行く秋を思う心にも似た気持にもさせられる。周囲の配役のことも含めて、もうこれだけの『道明寺』は叉と言っては見られまい、と思わないわけに行かない。将来のことは予測できないにせよだ。心ある人は何を差し喰っても見ることをお勧めする、と新聞評に書いた所以である。

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戦後これで12回目となる『道明寺』上演の内、昭和39年5月の11代目團十郎生涯唯一の上演以後の10回すべてを見たことになる。こんなことが記録を調べるまでもなく空で言える狂言は他にあるまい。神品と言われた13代目仁左衛門の、国立劇場開場15周年の56年11月と、63年2月歌舞伎座と二度にわたる上演を、やはり規範と考えるべきであろうが、初めて見た『道明寺』という想い出からも、私は11代目團十郎の菅丞相も忘れがたい。もっとも、13代目のをはじめて見た時の、義太夫の含蓄を踏まえた、音を遣った菅丞相のセリフの妙に驚き、感に堪えた記憶は忘れがたいから、もしかすると11代目のは、そういう点では瑕瑾もあったのかもしれないが、当時の私にはまだそうした観点から見る力はなかったことは白状しなければならない。しかし13代目のとはまた違った、孤絶感に包まれた気韻といい、やや情に傾いた気配もなしとしない13代目に比べ、毅然とした趣きといい、少なくとも当代仁左をも含めて「三絶」のひとつと見たい。

特に忘れがたいのは最後の花道で振り返っての天神の見得で、13代目も15代目も、両松島屋は普通の七三でするが、私の記憶では11代目はこの見得をいわゆる「逆七三」でしたのだと覚えている。苅屋姫のすがる袖を払ってずっと息をつめたまま花道を、普通の七三を通り過ぎて逆七三まで歩んでから、すっと振り返って袂をくるくると巻き上げた方が、息の使い方が長くなる、その分、思いが一段と深く余韻となって心に沁みるのだ。此処ばかりは、のちに13代目のを見た折に、唯一、物足りなく思ったものだった。

こういうことが確かな記憶として言えるのも、当時貧乏学生だった私は、3階の東側「ろ」の19または20という席で見るのを常としていたから(そのために前売り初日に並んで席を確保した)、11代目の菅丞相が逆七三までの長い距離を歩いて行くのをつぶさに、息を詰めて見ていたからで、この場面を見るためにはこの三階東側「ろ」の19の席こそが、歌舞伎座の全座席中、最上の席だったといまも思っている。(花道逆七三へと歩む丞相と、見送る覚寿・苅屋姫をひとつの視野の中に一望できるためには、三階から俯瞰するパノラマ的展望が不可欠になる。これを以てしても、歌舞伎は、一等席1万8,000円を払うばかりが、あるいは役者の生身に接するかのような小劇場で見るばかりが、必ずしもベストとは限らないことが分る。)

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『道明寺』の上演機会の少ないのは菅丞相に人を選ぶことの他に、他の役々にも人が揃うことが求められるからと言われるが、今度の覚寿秀太郎、立田の前芝雀、土師兵衛歌六、宿禰太郎弥十郎、苅屋姫壱太郎、判官代輝国菊之助等々という配役は、いま現在での人材を揃えたと言い得るが、気難しいことを言い出せばドンピシャリは芝雀ひとりかも知れない。

では覚寿に他に誰がいると問われれば、よくぞ秀太郎がいてくれたとも言えるのだが(田之助がこのところとんと出ないが元気なのだろうか?)、強さが求められる「杖折檻」から「館騒動」はよく頑張ったが、情が主体となる「丞相別れ」になると世話っぽくなるのは、得意の筈のところで却って上手の手から水を漏らしてしまったものか? 尤も、本来立役から加役で勤めるのが常法だったこの役も、13代目二度目の上演の折の梅幸以降は、専ら当代仁左の丞相でも芝翫、玉三郎と女形が勤めるのが四半世紀も続いている。もっとも玉三郎のときは、14代目勘彌の三十七回忌という意味合いもあってのことで、その勘彌はさっき言った11代目團十郎のときに覚寿をつとめたのだった。水奴の宅内を成敗すると見せて宿禰太郎を討つところのエスプリのある芝居が面白かったのを覚えている。国立開場の時の二代目鴈治郎、白鸚丞相の時の17代目勘三郎、13代目最初の時の延若と、錚々たる顔ぶれが並んでいるが、誰、と決定打を放った人はいないともいえる。結局、品格と13代目の丞相に比肩し得る芸格の大きさ・高さで梅幸、女形をする時の常でやや芸がこずんで期待ほどではなかったが芝居上手で鴈治郎、きっぱりとメリハリのある芝居運びで勘彌というところか。17代目は何だかやり難そうにしていたのが気になったが、もし今、映像なりと見ることが出来たなら認識が改まる可能性はある。延若は品あり手強さありで私は好きだったが、セリフが渋滞したのが惜しまれる。

立田の前は我童、雀右衛門など錚々たる人たちもつとめたが、13代目所演の折の若き日の秀太郎の玲瓏たる趣きも忘れがたい。労多い割りには功少ない役だが、他にも田之助とか、この役は今度の芝雀まで、誰かしらいつも適任者がいる。

宿禰太郎は、11代目團十郎、13代目仁左衛門の折の富十郎の目の覚めるような躍動感が圧倒的だが(11代目のときは市村竹之丞を襲名した翌々月だった。闊達さの盛り、当時の竹之丞ほど勢いのある役者は今なおいない)、段四郎の木目込み人形みたいなカチッとした古典味も劣らずよかった。両者相譲らず、双璧というところか。いずれにせよ、芸に愛嬌のある優でないと面白くない。意外に難しいのが土師兵衛で、八代目團蔵、鯉三郎、先代権十郎と顔ぶれは揃っているが、「東天紅」の件の太郎と二人で「すりゃこそ鳴いたは東天紅」と囃し立てる具合など、もっともっと愛嬌たっぷりの親爺敵として芝居気の必要な役なのではないかと思われる。私は見ていないが、昭和30年代関西歌舞伎が壊滅した大阪で行われた「七人の会」という短期間の公演で、(実はこの時に13代目仁左衛門が菅丞相を初演しているのだが)、この時の嵐璃珏の兵衛というものは格別の面白さであったらしい。そこから類推して、助高屋小伝次が一番それに近いかと思われる。今度の歌六は少しいかめし過ぎるのではあるまいか。太郎も兵衛も、立者のやる大きな役ではあっても、役の性格としては安敵に類するのだ。

苅屋姫は、由次郎から襲名直後の田之助(鶴之助改め竹之丞と同時襲名だった)、秀太郎、精四郎時代の沢村藤十郎、玉三郎、孝太郎に今度の壱太郎となるが、みな若き日につとめたもので、これだとか『九段目』の小浪とか『合邦』の浅香姫とか、芸はしっかりしていなければならないがあまり大物が出ると却って可憐な清楚さが出にくくなるという役の、これもその一つだろう。一人というなら国立開場の時の秀太郎か。(この時は菅丞相の17代目勘三郎も覚寿の2代目鴈治郎もいまひとつ冴えず、13代目の判官代輝国と秀太郎の苅屋姫、国立開場最初のセリフを序段「大内山」の場で第一声として発した当時の片岡孝夫と、松島屋一家が攫ってしまったという評判だったが、折から来日中のベルリンオペラの面々が見に来て、赤い着物を着た人が一番巧いと評判だったというゴシップ記事を読んだ覚えがある。)輝国はその時と團十郎のときの13代目仁左衛門の後、我当、梅玉、富十郎とつとめているが、こればかりは我当が最上だった。父譲り。今度の菊之助は、この大曲のピリオドを打つ役として、思いの外に役者ぶりが小さいのは何故だろう? 菊之助が己れを知るための試金石となり得るのではあるまいか?

水奴は八代目三津五郎のような大家がつとめたのも見ているが、年寄りの冷や水などという意地悪評も耳にした。勘九郎時代の勘三郎も勤めているご馳走役だが、九代目宗十郎の独特の愛嬌が一番で、回数も一番多い。若い頃の歌六もまだほそっこい体でやったことがあるが案外悪くなかった。と、こう名前を並べても分かる通り、役者心の有無が物を言う。

偽使いの弥藤次は今度の松之助も存外健闘しているが、これは先代の片市にとどめを刺す。器用な人ではなく、セリフの癖もいつも同じだったが、それでいて、何をしてもその役になっているという不思議な役者だった。

『道明寺』ではないが、同じ11代目團十郎の時の『筆法伝授』は八代目三津五郎の源蔵に、まだこの時点では大谷友右衛門だった雀右衛門が戸浪だったが(4カ月後の9月に雀右衛門になったのだった)、まさにほたほたと水の垂れるようで、『筆法伝授』の戸浪といえば今なおこの時の友右衛門を思い出す。

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『道明寺』談義がつい長くなったが、今回の『菅原』は、仁左衛門を見ることと、その他の主要な役々を若手たちがつとめる「花形歌舞伎」的側面への興味と、顔が二つある。で、そのもう一つの顔についてだが、いうなら近未来の歌舞伎界の予測地図を描いて見せたようなところに興味が行く。勘三郎・三津五郎を失った今、自ずから、興味というよりもっと切実な関心がそこへ我々の目を向かわせるのは自然の理というものだろう。

染五郎が『筆法伝授』では源蔵をし、『寺子屋』では松王になる。

たとえば吉右衛門と仁左衛門が昼夜で役を交替するというのなら格別、まだそういう大家でもない染五郎にこういう配役を組むのは如何か、といった正統的「正論」もさることながら、私が今回のこの配役に反対するのは別に理由がある。

染五郎の松王丸は『賀の祝』『寺子屋』とも努力の程は充分認められて「いま現在の染五郎」として決して悪い成績ではないが、ずばりと言って褒められるのは『筆法伝授』の源蔵の方で、こちらは仁よし柄よし、演技も悪くない、当代での源蔵といって過褒ではない。

この場でのこの役の急所は、伝授は伝授、勘当は勘当と理非曲直を曲げない(というところに、天神様たる菅丞相の「崇高なる融通の利かなさ」があるわけで、覚寿があんなに心を尽してやっても苅屋姫の顔を見ようとしないのも、同じリクツである、そこが並の情理兼備の生締役の紳士たちとはわけが違うところなのだ)菅丞相に、源蔵が、伝授は他に遊ばされ勘当御免、と泣き伏すところにある。染五郎の源蔵はそういう男としてすぐれている。そういう「柔らかな心」を心底に持った男の痛切な思いが『寺子屋』へとつながるわけで、だからせっかく『筆法伝授』で源蔵をしたのなら『寺子屋』でも源蔵をしたくなるのが、筋から言っても情の移りとしても当然自然だと思うのだが、染五郎丈、如何であろうか? 貴兄なら、そういう機微を汲める人だと拝察するのだが?

同日の内に『筆法伝授』と『寺子屋』で源蔵をつとめられる機会など、そうそうあるものではない。染五郎は千載一遇のチャンスを逃したことになる。惜しむべし。

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菊之助が『加茂堤』『車引』『賀の祝』と通して桜丸を演じた上に『道明寺』で輝国をつとめるが、こういう場合、桜丸を本役として輝国は余裕綽々、いい役者ぶりで半日の観劇を気持ちよく締め括ってくれることが、観客の側の芝居見物の生理に適うというものである。劇中の人物であるだけでなく、同時に観客と芝居の綴じ目に立っている役と言ってもいい。輝国の幕外の引っ込みはそのためにあるようなものだ。そうした機微をさりげなく包んで大曲『道明寺』にエンドマークを記すのが「大人」の役者というもので、俊才菊之助もそこらがまだまだお若いということになる。

桜丸は『加茂堤』は梅枝の八重ともども上々、『八犬伝』の信乃浜路といい、近頃の良きカップルである。(梅枝は『筆法伝授』では戸浪で染五郎とカップルだが、これも上々である。)

菊之助は『車引』『賀の祝』でも及第点は取ったが、芝居にゆとりがないのはやむを得ないながら、あの一幕が一倍長く、重たく感じられた。(それにしても桜丸という役、のれん口から出て坐りこんだ切りそのまま腹を切ってしまう。サッカー風にいうならこれほど運動量の少ない役もないだろう・・・などという雑念が、菊之助を見ながらつい思い浮かんでしまった。)

愛之助の梅王丸は隙を見せない優等生、と言っては意地悪評になってしまうが、しっかりと正攻法で四つ相撲を取ろうとし、また取っているところに端倪すべきものがある。この人は決して荒事役者ではない、にも拘らず『車引』の、あの幕切れの見得できっちり格に入って見せた。ついこちらも教師気分になって、成績表に「優」と書き込むことになる。

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染五郎と菊之助がほぼ出ずっぱりの大わらわの一方、松緑が『寺子屋』の源蔵ひと役。もっとも筋書の出演者の弁で、私は梅王のイメージかも知れませんが一番好きな役は源蔵と語っているのが面白い。『筆法伝授』の染五郎と好対照に男っぽい源蔵で、こういう役をする時の松緑を見ていると、あゝ、辰之助の子だなあとつくづく思う。武骨で正直者で、公卿侍というよりどこかの地方の藩士みたいだが、こういう源蔵も悪くない。ふと思ったのだが、こういう行き方で『筆法伝授』をするのも面白かろう。ひと頃、隈を取る役ばかりやっていた(させられていた?)時代があったが、辛抱強くここまで来たのである。と、つい感傷的になってしまったのは何故だろう。

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ところで『加茂堤』だが、今度も最近の定番台本で済ませているが、今度のような一座の場合を良き折として、冒頭、三兄弟が揃って語らいをしている場面を出したらどうか。たいして時間を喰うわけでなし、むしろそれ故に、エライ役者がつとめる時には早朝出勤を要請しにくいところから今の慣行が出来たのだ。そういう悪しき慣例を改めるのも、花形たちの仕事の内ではあるまいか?

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国立劇場の橋之助初役の『髪結新三』については、『演劇界』5月号に劇評を書いたからここでは控えるが、聞くところによると、橋之助は三津五郎に教わることになっていたのが、ああした結果となり果たせなかったのであるらしい。入院中の三津五郎から電話で、あなたの新三を作りなさいという助言があったという。せめて三津五郎にもうひと月の命があったなら、といった思いも残る話だが、この三津五郎の言葉から何を汲み取るべきか、鍵はそこにあるだろう。

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