随談第610回 お熱うございます(遅ればせの挨拶)

締め切りの優先順位がめまぐるしく変動するという事態のために8月の随談を9月になってようやく書き始めるという始末である。今月の初日が開いてしまった今更、先月の話をするのも難儀だから簡略に済ませることにしよう。

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歌舞伎座の三部制の内、第一部と第二部の「弥次喜多」までが幕見席まで完売、第二部第二の「雨乞其角」と第三部の『盟三五大切』がガラガラ、という話を聞いたが、どういうことなんだろう、とも思うし、そりゃそうだろう、とも思う。ふーむ、そうですか、と取り敢えずは相槌を打つより知恵が浮かばない。ホントウニ、ドウナッテルノダロウ?

『花魁草』は既に菊五郎にはなっていたがまだ若かった頃、梅幸がまだ健在で父子共演した初演を思い出しながら見た。当時は、流石の北条秀司も晩年で、北条さんとしてはまあまあの作かなという感じで見たものだが、いま改めて見ると、ちゃんと抑えるべきツボは押さえてあるのだなあと、むかしの作者の確かな腕というものを再認識する。上演時間90分の中に人生の機微が過不足なく盛ってあって、11時に始まり、終わると12時半、ちょうどお食事時間という頃合いになっている。今度は菊五郎の役を獅童、梅幸の役を扇雀がやっているが、なかなか悪くない。ある意味では、こういう二人の方が向いているともいえる。一、二塁感を転々と転がるゴロで抜いたシングルヒットというところ。(二塁手が広島の菊池だったら捕られていたか・・・?)

『龍虎』を見ながら、先月の『源氏物語』の明石の龍神の宙乗りの場面を連想した。次に、八代目三津五郎の随筆に、初演のときまだ健在だった七代目に見せたら、なんだか気違いみたいなものだね、と言われたとあったのを思い出した。七代目の感想の言はいまなら「配慮すべき言葉」というパージに引っ掛かることになるわけだ。私が初めて見たのは八代目としては最後の、のちの九代目の、当時蓑助と踊ったときだが、八代目の時はいつも文楽座出演だったのだから相当の意気込みと権威があったのだろう。

『心中月夜星野屋』の原典の落語の「星野屋」はむかし桂文楽のを聴いたのを思い出す。この名人はなぜか手拭いでなくハンカチを使うのだが、端を糸切り歯で噛んでキーっとしごいて「悔やしい―っ」と泣いた姿が目に残っている。今回は中車、七之助に獅童の女方という配役が効を奏した。中車もこういう芝居を違和感なくやれるようになったのだから、歌舞伎役者として身についてきたのだろう。婆ア役とはいえ獅童の女方も悪くない。『三五大切』の三五郎も悪くないから、つまり今月の獅童は三安打、猛打賞である。

第二部は『弥次喜多』『雨乞其角』併せて、新橋演舞場の『NARUTO』組を除いて次世代若手花形総動員で(中には随分久しぶりの顔も見える)、幸四郎・猿之助の座頭としての目配りの良さがすべてと言って過言ではない。猿之助に至っては『NARUTO』への応援出演との掛け持ちだが、なにはともあれその目配りは大したものだ。『弥次喜多』では門之助のキリストが珍芸賞、これも歌舞伎役者の芸の内である。

『三五大切』を見ながら思ったのは、この芝居は偉い役者の大顔合わせなどより、むしろこういう顔ぶれでやるのが一番ふさわしいのだということである。幸四郎の源五兵衛は仁も柄も違うが念願叶って気を入れてやっている良さ、七之助の小万は玉三郎とも共通しつつそれとはまた一風違う独自の風を見せ(つまり、単なるエピゴーネンではないという)最適任、獅童の三五兵衛も、仁左衛門よりむしろ、あのザラザラ感に於いて最適任だろう。狂言の規模・内容と主役三人の芸の身の丈が、今までのどの顔合わせよりもハマっている。つまり今日的なのだが、にも関わらず、第三部がガラガラだったというのは、当節のカブキ・ゴーアーには「大作者南北作の古典」という堅苦しいイメージで敬遠されたということなのだろうか?

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夏の自主公演・勉強会研究会から収穫いろいろ。

まず歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」から。歌昇の関兵衛・黒主、種之助の宗貞、客演の児太郎の小町姫に薄墨という『関の扉』がアッと言わせた。とりわけ黒主には驚いた。もう吉右衛門も幸四郎も体力的にやらないとすれば、これだけの黒主を他に誰が見せてくれるだろう?(と言うほどのものである。)

「音の会」で『寿式三番叟』を素踊りで踊るというのも初めて見る珍しさだったが、新十郎の三番叟がよく踊った。(本当は項を改めて書くべきことだが、先月末、国立能楽堂で野村万作師が『釣狐』を面・装束を付けず紋付袴姿で演じる「袴狂言」として演じるという舞台に出会うことが出来た。87歳の名人の超絶的な芸と並べるわけではないが、稀有な体験ではあった。)

尾上右近の「研の会」で、右近が壱太郎の梅川で『封印切』の忠兵衛をしたのが、なかなか面白かった。詳しくは『演劇界』に書いたが、藤十郎を捨て台詞の末まで「模写」するというのは只事ではない。

鷹之資の「翔の会」で妹の愛子と『吉野山』を素踊りで踊ったが、踊りもさることながら、まさに父ゆずりの素晴らしい声に感じ入った。18歳、今春大学に入学したという。行く末を祈らずにはいられない。

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7月の日経の「私の履歴書」は吉右衛門だったが、何回目だったか、高校生になる前から銀座のクラブ通いをしたという思い出話の中に、指南役は松竹スター森美樹だったというのを読んで、アッと思うと同時に記憶が甦った。いま森美樹と聞いて、オオとすぐわかる人はそうはいないだろうが、昭和30年代初頭の数年、売り出してかなり重用されたスターである。長身で、日本人離れした風貌だったが、むしろ時代劇で重用された。当時は、東映・大映だけでなく松竹も時代劇を盛んに作っていたから、春の連休をゴールデンウィークと名付けて大船の撮影所で現代劇の大作を、秋の文化の日を中心にした頃をシルバーウィークと名付けて京都の撮影所で時代劇の大作を、というのが方針で(シルバーウィークは定着しなかったが、ゴールデンウィークの方はすっかり定着した代り、元は松竹映画の宣伝から始まった用語だったことは忘れられてしまった)、八代目幸四郎、即ち初代白鸚を引っ張り出すのが恒例だった。で、昭和31年秋のシルバーウィークの大作は『京洛五人男』というのを、幸四郎が近藤勇、高田浩吉が月形半平太、田村高広が坂本龍馬(父親のバンツマが死んで、サラリーマンをしていたのを無理やりバンツマ二世として売り出そうと映画俳優に転向させ、現代劇ならともかく時代劇は、と尻込みするのをやらせたのだった。この時が初の時代劇であったかも)等々、という中で森美樹もかなりいい役で出ていたが、たぶんこの『京洛五人男』あたりが縁の端ではなかったろうかと推測できる。そういえば当時、映画雑誌の記事で(そのころ私は、それまで読んでいた『平凡』をやめて、ワンランク上げたつもりで『近代映画』というのを購読していた)、森美樹が「毎日一度は銀座を歩かないと気がすまない」と言っているのを読んだ覚えがある。まさにドンピシャリではないか。おそらく森美樹氏は幸四郎に気に入られ、当時中学生の萬之助少年のよき「おにいさん」であったのだろう。(たしかそれから程なく、不慮のことがあって早世したのだったと覚えている。)

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津川雅彦氏の訃報と共に随分多くの声が聞こえてきたが、それはそれとして、ごく若い時から見ていた者として、ある種の感慨が私にもある。名子役として鳴らしていた兄の陰になっていた少年期を持つ、次男坊の屈折が柔構造の面白いキャラクターを醸成したという、これも良き事例だろう。つい先ごろ、『お転婆三人娘・踊る太陽』に『ジャズ娘誕生』などという昭和32年制作の日活映画を絶えて久しく再見する機会があったが、実に懐かしかった。どちらも、売り出したばかりの裕次郎が、『ジャズ娘誕生』では江利チエミの、『お転婆三人娘・踊る太陽』ではペギー葉山、芦川いづみ、浅丘ルリ子の三人姉妹の引き立て役をつとめつつ、自身も売り出そうというもので、何ともチャチなものなのだが、そこが時代を雄弁に物語っていて、実にいい。監督が『ジャズ娘誕生』は春原政久、『お転婆三人娘・踊る太陽』が井上梅次で、その井上梅次が、もうその年の内に『鷲と鷹』とか『嵐を呼ぶ男』といったアクションものの裕次郎映画を作り始める、その前夜の作なのだが、さてその『お転婆三人娘・踊る太陽』の方に、これも売り出したばかりの、まだ15,6歳ぐらいの津川雅彦が出ていて、なんとも涙が出そうなほど情けなくも懐かしく、しばし感慨に耽った。引き立て役の裕次郎の、いうならそのまた引き立て役なのだが、大を成してからの津川については私などの出る幕ではないとして、こういう話はあまりする人もなさそうなので(『狂った果実』だと、多くの人が語り出すのだが)、ちょいとお目を汚す次第である。

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むかし「月面宙返り」という技で名を成していまは体操界のボスになっている人物が、アマ・スポーツ界汚染の新手の話題の標的となっている。もっとも、その話をするのが目的ではない。この人が選手として活躍したころは、もうあまりオリンピックなどを子供の頃のように熱心に見なくなっていたので、おのずと耳に入ってくる声名しか馴染みがないが、「月面宙返り」などと言う、少年活劇物のような名称が大真面目でつくようになったハシリとして記憶に残っている。もう少し前の、東京オリンピックでエースだった遠藤とか、もっと前から高名だった小野とかいった人たちの頃は、大変な名人上手ではあったが、鉄棒から飛び降りるときはごく真っ当に飛び下りていたから、子供だましのような格別な呼び名がついたりはしなかった。つまり、なんであんなわざとらしい「技のための技」をしなければならないのだろう?という、体操という競技に一種の違和感を覚えた初めが、かの「月面宙返り」だった。フィギュアスケートなどにも同じことが言えるが、おもしろうてやがて虚しさをおぼゆる「技」を競い合う競技の行き着くところなのだろう。

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