随談605回 如月弥生の噂たち

ようやくオリンピックの喧騒が収まって、とにもかくにもほっとする。オリンピックが嫌いなわけではない。テレビを通じて培養・増幅される騒々しさに疲れるのだ。取り分け、NHKと民放とを問わず女性のアナやレポーターの、一生懸命盛り上げましょうと奮励努力する嬌声のワンパターンぶりが、彼女たちの健気さが思い遣られるにつけ、痛々しさに耳を覆いたくなる。彼女たちの真面目(なればこそああなるのだろうから)な努力を悪く言うわけにはいかないだけに、こちらはますますたじろぐことになる。

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閉会式の実況放送をした女性は、日本選手のメダルの数が幾つと幾度言ったことだろう。近年日本選手の活躍が目覚ましくなるにつれ、また競技数が幾層倍するにつれ、日本人選手の出番のない種目で世界最高峰クラスの名人上手たちの芸を見る機会が少なくなってしまった。あれらこそ、オリムピックならではなかなか見られないものなのだが。熱心に放送時間を調べればどこかで放送しているのかも知れないが、日本の女子選手の活躍をあれだけ繰り返し見せ(てくれ)たスケート競技でも、男子1万メートルというのは遂に見ずにしまった。いつのオリンピックだったかオランダの何とかいう大選手がいて、当時のテレビは彼が悠然とリンクを何周もする姿を延々と写してくれたから、日本の取ったメダルが幾つなどということを忘れて惚れ惚れと眺めたものだ。

そういう中でたまたま、バイアスロンの放送を見たのは幸いだった。むかしの札幌大会の時にたまたま中継を見て、こういうすっとぼけたような競技があるのを知って、ちょいと好感を持ったのである。スキーの距離競技と射撃を組み合わせて、一発的を外すたびに一周回ってこなければならないというペナルティがつくというのが、とぼけた味がある。こういう競技は、北ヨーロッパの雪に閉ざされた狩猟生活の実際から生まれたものに違いない。狩人になった勘平が、京都の山崎などでなく、どこか雪深い土地で、狸の吉兵衛や種子島の六等の狩人仲間と鉄砲を担いで野山を駆け回るような生活の中から考え出されたような趣きがある。もっとも今度久しぶりに見ると、随分設備が整備されて以前のような野趣が薄れ、むかし行った山あいの温泉宿を久しぶりに訪ねてみたら麗々しいホテルが建っていたような感じだったが、それでも、フィギュアスケートとか体操競技のように、選手たちの技は大したものには違いなくとも、あまりにも高度に発達したために技のための技というところまでいってしまうと、何となく無機的な感覚になるが、それがあまりないのがいい。日本のナントカ選手がメダルに届いたの届かないのと絶叫するアナの声を聞かなくてすむのも、健康にいい。

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もちろん、羽生選手も小平選手も千手観音みたいなパシュートの諸嬢もカーリング女子も結構でしたよ。彼らの健闘にケチをつける気は毛頭ないが、いまさらここに書くには及ぶまいと思うから書かないだけだ。

ただひとつ、羽生選手の(たしか帰国してから外人記者クラブの会見でだったかの応答ぶりを聞いていて、その頭脳の良さとセンスの良さから、売り出したころの玉三郎がいろんなところに引っ張り出されてインタビューに答えていろんなことを何の屈託もなく語る言葉が、おのずから「玉三郎語録」とでもいうような趣きとなっているのが、世の人々を瞠目させたのを思い出した。技術としてのフィギュアと芸術としてのフィギュアとの関係をどう思うかと問われて、高度な技術と高度の芸術性とは両々相俟つべきもの、といった趣旨のことを「羽生語録」風のディクションでさらりと答えてのけるあたりが、その真骨頂だろう。(当時、玉三郎宇宙人説というのがあったっけ。いまもあるのかもしれないが寡聞にして知らない。)

それにしても、欧米の選手と並ぶと大人と子供みたいに身長差があり、おまけに胴長短足、タキシードに蝶ネクタイをするとチンドン屋みたいになってしまうのが常だった「ニッポン男児」から、ああいう手長足長という体型のオノコが出現するようになろうとは、お釈迦様でなくとも夢にも思わぬことであった。(浅田真央の先生の佐藤選手などの時代は、男子フィギュアというと蝶ネクタイなどをつけた正装で、屋外のリンクでやっていたものだった。新聞の扱いも小さく、スポーツ欄の中段辺りに、それでも小さいながら写真入りだったのはいいが背景に雪の榛名山なんぞが写っていたりするのが何がなし物寂しくて、ものの哀れを感じさせた。)

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カーリング女子諸嬢のプレー中とプレー後の変貌ぶりを見ながら、さらには帰国後の、ごくフツーの人ぶりを見ながら、ウルトラマンのナントカ星人が普段はそこらのおじさんやおばさんの姿をしていたり、スーパーマンの正体がうだつの上がらないサラリーマンだったりするのを連想した。あんなにすごい技を見せていた選手諸嬢が、帰郷した途端、OLや店員をしている、ごくフツーのむすめさんの顔になるのを見てこの人たちをソンケイする気になった。

普通の人の中に凄い人がいる。コンビニで売っているおにぎりに海苔を巻き付けるあの仕掛けを工夫した人を、私は天才だと思うのだが、会ってみたら、たぶん、何てことのないフツーの人なのだろう。そういう、人間の摩訶不思議さを、カーリングの彼女たちは教えてくれた。

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春場所が始まると同時に、貴乃花親方が相撲協会を訴える訴状を内閣府に提出し、協会役員としては春場所を欠勤する由。ご本人かねがね曰く「精進とは神事の世界」なりと。つまり、欠勤も神事の内、ということか。ところへ、愛弟子が暴力沙汰を起こすという不祥事勃発。笑い事ではないのは重々承知しながら、申し訳ないがつい吹き出してしまった。あの何とも不思議な勿体を付けた態度物腰をさんざん見せられた後では、これは如何ともし難い。

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さて、ここからは芝居の話。

今月はまず菊之助だろう。『髪結新三』は予期を大きく超えるものだった。天晴れ上々吉、である。何度も書いてきたように、この優の近年の立役志向に、私はなにがなし、素直に賛同できないこだわりを抱いていた。あれだけの、純正で癖のない若女形ぶりは稀に見るものであり、大切にしたいという思いが強かったからだ。彼が幼名の丑之助から、菊之助と名乗って脚光の中に歩み出してきたとき、私は、実際には見たこともない、彼にとっては祖父の梅幸の若き日というのはこうでもあったろうかと夢想した。菊之助を襲名した舞台では浜松屋の弁天小僧をつとめたが、いよいよ見著わしになって肌脱ぎになろうという一瞬、大向うから女性の声で「脱がないで!」と声が掛かった、という話を、そのとき同じ舞台を見ていた某氏から聞いたことがある。その女性の気持ちがわかるような気がした、というより、女性にそう叫ばせる菊之助を、面白いと思った。その後しばらくは着実に若女形の正統の道を歩み続けるかと見えた菊之助が、ちょうど世紀の変わり目頃だったろうか、『グリークス』に出演し女方にあるまじき芝居をしたり、海老蔵の光源氏に紫の上をつとめ緋の袴姿でずかずかと男のように歩いたり、ゴッホの若き日の芝居をしたり、といういっときがあったが、思えばあれが、菊之助若き日の惑いの日々であったのだろう。やがて歌舞伎版沙翁劇『十二夜』でアッと言わせたり玉三郎との新版の『二人道成寺』を踊って瞠目させたり、という「天の時」がやってきてトンネルを抜けたのだった。

7年前の東北の大震災の折、菊之助が自ら企画してチャリティー舞踊公演を行ったとき、『藤娘』に『浮かれ坊主』を上・下二段返しにして見せたのを見て、あゝと心づいたことがある。父の菊五郎が華々しく売り出した若き日、東横ホールの花形公演でこの踊り二題を二段返しで見せたことがあった。菊之助を襲名したばかりの当時の菊五郎にとって、あれはひとつの宣言であったと私は思っているが、菊之助は父のその「故事」を知っていたに違いない。で、時至って、(義経でなく)富樫をやり、宗五郎をやり、こんど新三を出した、ということなのであろう。宗五郎はまずまずというところだったが、新三は、歴代の新三役者列伝中に数え得るものだと思う。芸の良し悪しを超えた輝きがある。「新三内」を見ながら思ったのは、もはや彼が立役をつとめるのをとやかく言う段階は超えたということだった。

もっとも、危惧がないわけではない。「白子屋見世先」や「永代橋」では、新三がいい男だというより、菊之助自身の美男ぶりが先に立つ。つい先月末、右近が清元永寿太夫としての披露目の延寿会で菊之助は『お祭り』を踊ったが、宝塚の男役みたいという声の聞かれたのは厳しすぎるとしても、いささか腑に落ちかねる出来だった。つまり『お祭り』のあの鳶の兄イは、役であって役ではない。新三なら新三という役の人物を演じることによって役になるのではなく、踊り手である菊之助自身がすっと役になるのでなくてはサマにならない。あの手の役の方が実はむずかしいのだ。で、そういうことがあって直後の、今度の新三である。これは、どう考えればいいのだろう?

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『国姓爺合戦』という芝居は、労多い割には功成り難い、つくづく難しい芝居である。まず錦祥女の唐人衣裳が似合う女方というのはなかなかいない。ほとんど唯一の例外は玉三郎で、この異能の人はあの異国の風俗がずばり、サマになった。(それをとっかかりにして、当時、玉三郎論のごときものを物したことがある。)第二に、和藤内という役が、「紅流し」の荒事を除けば何とも手持無沙汰であることで、錦祥女は元より、甘輝、老一官、渚と他の人物たちが皆、複雑な肚の芝居をする中で、誰がやっても、ただひとり彼だけが単細胞オトコに見えてしまう。(かつて江藤淳が出世作『夏目漱石』で「坊っちゃん」の主人公を和藤内になぞらえたが、なるほど、何の罪も悪気もない松山の町の人々を、江戸っ子の坊っちゃんがなんとも無邪気に突っかかり、傷ついた挙句、一方的にこき下ろす、まさに、童子の心でつとめよという荒事の極意そのものであろう。)こんどの愛之助は、勉強家らしくかどかどの見得など、腰がよく入ってなかなかいい形をするが、しかしこの人の仁から言って、甘輝をした方が、少々柄は小さいが適役である筈だ。反対に芝翫の甘輝は、唐人衣裳の似合うのは天下一品だが(昨年の『唐人殺し』と言い、このところこの人の役者ぶりの良さが光って見える)、肚から言えば彼が和藤内であろう。このところ腕を上げつつある扇雀も錦祥女はちと荷が重く、結局今度の『国姓爺』は老一官と渚の老人夫婦の芝居となった。(とはいえ、東蔵は本当は渚の人だろう。)秀太郎の渚は流石だが、それにしてもこのニッポンのお母さん、ふた言目には「日本の恥」と連発するのがちと耳にさわる。(大近松のむかしから、ニッポン人は、国際舞台へ出ると必要以上に力み過ぎるというDNAに変わりはないらしい。)

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雀右衛門の『男女道成寺』は『京鹿子娘道成寺』への橋頭保を築いたものというべきだろうが、(玉三郎がもう踊らないとすれば)、『京鹿子娘道成寺』は選手がいるのに観客はお預けを食うこと既に久しい状態が続いている。

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歌舞伎座の夜の部は玉三郎ワールドによる貸し切り状態。「お染の七役」の通称を出さず『於染久松色読販』と本名題だけ謳ったのは、土手のお六と鬼門の喜兵衛の件り二幕だけを出すからで、この「孝玉」発祥の記念すべき狂言を玉三郎・仁左衛門で見せるのが趣向。昔を知らず、今の二人だけを見る人にはもちろんそれ相当の感想も批評もあるだろうが、47年前の(昭和93年の今年、あのときの初演がちょうど昭和・平成の歳月の折り返し点だったのだ!)フレッシュコンビ誕生の舞台の記憶をまざまざと呼び起こすにつけ、感慨なきを得ない。見る我々にとっても、演じる玉・仁左御両所にとっても、思い出たっぷりの曾遊の地を感慨深く巡る旅をしているような気分である。すなわち、「旧婚旅行
に批評などと、野暮な真似はいたすまい。『神田祭』も御両所のデレデレぶりを楽しめばそれがすべてである。

むしろ玉三郎としては、かつて自ら新派の舞台に出演して繰り返し演じた新派古典の『滝の白糸』を、壱太郎・松也両人に演出として伝授する方が、「今日的」な意味を持つ行為と言える。こうした「玉三郎女子大学」の学長プロフェッサーとしての活動を最近頓に目にするようになったが、これも、一代の異能の名女方玉三郎としての身の処し方の一環であろう。果して壱太郎・松也両人、予期を超える健闘ぶりであったのはめでたい。

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今年も品川の六行会ホールでみつわ会の公演があった。第20回記念公演とある。久保田万太郎作品だけを二本づつ、三月の数日間公演する。今年は『あきくさばなし』に『釣堀にて』。新派の田口守が、ここ数年来こうした仕事に熱心に取り組んで、みつわ会以外でも、『銀座復興』だの今年正月の新派公演で山田洋二の『家族はつらいよ』だの、昭和の東京の市井の男を演じ続けている。『釣堀にて』の方は直七老人が中野誠也で、この人もみつわ会の常連出演者だが、在来普通のイメージからすると万太郎の世界とはややずれを感じる。『釣堀にて』というと、万太郎が死んだ年の12月、追悼の催しが三田の校舎で行われた折、本読みの形式で、つまり大教室の教壇辺りに椅子を置いて、演者は台本を手に、簡単な仕草をする程度でやったのが、却って万太郎の言葉の味わいがよく伝わっておもしろかった。この時の直七老人は中村信郎だったが、いかにも戦前の東京の下町で旦那と呼ばれる人物の陰影を彷彿させたのが忘れ難い。中村伸郎としても、舞台・映画を通じてこの時の直七老人ほど水際立った名演はなかったのではあるまいか。あの直七は、もういまの東京にはいなくなってしまった(絶滅してしまった)人種であろう。それをいまの俳優に求めても無理というものかも知れない。

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