随談第4回 ときにはこういうものも

上演日わずか8日間。9日で終わってしまうようだから、いまさら奨めても遅いかも知れない。だからせめて書いておくだけで満足しなければならない。

昨日、吉祥寺の前進座劇場で小山内薫作『息子』、真山青果『玄朴と長英』の二本立てを見た。「本近代劇名作選」というタイトルがついているが、それぞれ大正12年と13年の作である。登場人物は前者が三人、後者が二人。音楽もない。ほんのわずかな効果音があるばかり、あとはひたすらセリフ、セリフだ。もちろん仕草はあるがごく普通のリアリズムで象徴的な意味などはない。あるのは対話、言葉の応酬だけだ。

演技評はいまはしない。嵐圭史とか藤川矢之輔など、座の実力派で締めているから、まず相当の出来だったとだけ言っておこう。

見ながらつくづく思ったのは、こういう言葉のやりとりだけで成り立っている舞台が、いま改めて、懐かしいほど新鮮に感じられたということである。観客がじっと聞き入っている芝居。ああ、芝居ってこういうんだったよな、という感じ。懐かしいと言ったのは、それだ。近頃よくいうデジャヴィ、というのは既視感と訳すように視覚に関する言葉だが、それの聴覚版は何というのだろう。

テレビよりもラジオで育った世代だから、子供のころはラジオドラマが全盛時代で、シリアスなのから茶の間向き、子供向き、いろいろあったが(ラジオドラマの話は、いずれまた改めてしよう)、いま思うと、ラジオの作者というのは新劇の作者とかなり重なり合っていた。『息子』の小山内薫調がなつかしく響くのもひとつにはそれだ。しかしそういう個人的な回顧とは別に、改めて思うのは、こういうセリフまたセリフという芝居こそ、やはり舞台の基本なのだということである。

もちろん、歌舞伎から「歌」と「舞」を引いて「伎」だけになってしまった新歌舞伎への反逆からスーパー歌舞伎が発想されたように、パフォーマンス隆盛にはそれ相応の理由があるのはいうまでもないが、時にそれへの反省があってしかるべきである。少なくとも、吉祥寺での二時間は、きわめてすがすがしい二時間であったことは間違いない。

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