随談第8回 上村以和於野球噺(その2)更につづき

阪神時代の新庄というのは、まあ、一口に言えば、情けない男だった。スター性はあるが、本当には、まだスターとはいえなかったろう。相撲でいえば平幕である。もっとも、平幕でも、ちっとも面白みのない役相撲よりはずっと見るに値した。横綱と当たれば、一応、それなりに期待が持てる。どうなるだろう、とともかくも思わせる。むしろ、それだけが取り柄だったといってもいい。だから平幕でも役相撲なみの人気があった。

一度、もう野球をやめると言いだしたことがあった。私は情報通ではないから、何があったのか、それほどユニークな材料を持っているわけではないし、そうしたことを詮索しようという気持ちもないが、凡その想像はつく。しかしそれよりもいまなお印象的で、よく覚えているのは、荷物をまとめて、ぐしゃぐしゃになった髪をはらりと垂らした、みじめったらしいくせに、「おつゆがたっぷりある」風情である。あそこまでいけば、ただの二枚目を超えて、あっぱれ和事師といっていい。

歌舞伎で和事というのは、女にうつつを抜かす男の痴態を美的に優美に表現する「わざ」である。ほんらいは痴態だからそのままストレートにやられたら、とても見られたものではない。痴態をすら美にするのが歌舞伎の歌舞伎たる所以である。「わざ」と言ったが、技術だけではどうにもならない役者の身体と、身体の発散する匂いがあって、はじめて和事は芸になる。「わざ」と仮名で書いたのは、漢字ではいわく言いがたいものがあるからだ。

新庄はもちろん芝居をするわけではないから、そのみじめな姿に私が和事を感じたのは、新庄の身体が持っている感覚であり、そこから発散する匂いの故である。それは、ほとんど「いやらしい」ほどだった。そうしてそれは、メジャー入り以前の新庄について、最も印象的なことだった。

メジャーでは、大方の予想を裏切って、結構やった。日本でうじゃうじゃお茶をにごしているよりは、アメリカのほうがむしろ合っているだろうと予測したが、その通りになった。取材に応じる新庄が面白いというので、報道陣がいつも追い掛け回す。やや洗練は欠くものの、当意即妙の応対をする。新庄を中心にして事が廻り出す。そうなると、力が二倍にも三倍にも発揮されるタイプである。メジャーって新庄でもやれちゃうんだ、と誰かが書いていたが、掛値なしにそう実証してみせたのだから、これも新庄のあまり人が言わない功績である。アメリカの新庄は、阪神の新庄とは別人のように表情が明るかった。錦之助を連想するようになったのは、このころからである。ただ似ているというだけでは、こうはならない。新庄は何かをつかんだのだ。おそらくそれは体感したのだろう。

(まだつづく)

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