随談第9回 観劇偶談(その3)

「野球噺」はまだ続くのだが、ときに別なものも突っ込むことにしよう。「観劇偶談」というのは、もちろん、最近岩波文庫から復刊された近代劇評家の祖といわれる三木竹二の『観劇偶評』のもじりである。まあ、偉大なる大先達への「トトまじり」ですね。「その3」としたのは、最初の勘三郎の話と、前進座の話をを「その1」「その2」と数えることにしたいからだ。

つい先日、新宿の全労演ホール スペース・ゼロで文学座公演の『風をつむぐ少年』というのを見た。ポール・フライシュマンというアメリカ作家の小説を坂口玲子さんが翻訳・脚色したもので、偶然の事故からひとりの少女を死なせてしまった少年が、少女の母親から、「風見の人形」を作ってアメリカの四隅に立ててほしいと頼まれて、シカゴからシアトル、サン・ディエゴ、フロリダ、東部最北のウィークスボロと旅をするというストーリイである。贖罪の旅であり、自己発見の旅でもある。

狭い舞台に役者は8人。行く先々で出会うさまざまな人物にとっかえひっかえ変わる。少年もさまざまなことに出会う。とくに脈絡はない。これは劇評のつもりではないから、平気でほめてしまうと、じつは坂口さんとは『白塔』という連句の会を一緒にやっている仲間なのだが、一見脈絡のないさまざまな出来事をつないでゆく感覚や呼吸に、付かず離れずという俳諧連句の付け合いの阿吽の呼吸が、実に有効に生きている。あとで聞くと、坂口さん自身、脚色に当たってそれに気がついたそうだ。もちろん、鵜山弘氏の演出の功もあるが、当世風の言い方をすればモンタージュ手法に、計算ももちろんあるが、連句の付け合いという計算づくだけでは出せない面白さがあったのが発見だった。

そう思って気がついたのだが、マジメな優等生だった主人公ブレント少年の姿が、いつしか三蔵法師みたいに見えてきた。つまりわれわれの住むこの浮世には、孫悟空も猪八戒も沙悟淨も、銀閣大王も金閣大王もいるのである。

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