随談第10回 観劇偶談(その4)

勘三郎襲名の五月興行を見た。劇評はいつものように「日経新聞」と「演劇界」に書いたからそれを読んでもらうとして、ここでは『研辰の討たれ』のことを書いておきたい。

見終わってつくづく思ったのは、襲名披露という場に襲名披露の演目として演じられた『研辰』が、既になんの違和感もなく受け容れられているということだった。最後の幕が下りるときに場内から起こった拍手は、やや大袈裟にいうなら、古典的な静謐さすら感じさせた。もちろん、受けなかったのではない。熱狂よりもむしろ充足感がそこにはあった、というべきか。

もっとも、初日に見た人の話だと、スタンディング・オーベイションが起こったということだが、それは客席にいた野田秀樹を勘三郎が舞台へ招き上げたりしたためでもあったようだ。私の見たのはいわゆる御社日(記者招待日)だったので、もしかするとカーテン・コールは予定されていず、しかし緞帳が上げられてしまったので、下手に入りかけていた勘三郎が心持戸惑いを見せながら、上手下手に合図して、カーテン・コールがおこなわれたが、ここでも「古典的静謐」は続いていた。

襲名披露の演目として『野田版・研辰』を出したのは、勘三郎の強い意志が働いた結果であることは誰にも想像のつくことだが、それへの反発や疑問視する意見がいまでもどこかに底流しているであろうことも、容易に想像がつく。しかし、もう事態は、そうした意見を置き去りにしてしまったのだ、というのがカーテン・コールを見ながらの私の実感である。置き去り、という言い方が悪ければ、もう事は先へ進んでいるのだ、と言い換えよう。

そればかりではない。歌舞伎座の正面ロビーに飾られた7月興行の予告を見ると、何とシェイクスピアの『十二夜』の昼夜一本立て、しかも演出は蜷川幸雄、出演者は菊五郎・菊之助以下菊五郎劇団の面々が主力である。翻訳劇としてではなく、役名なども日本風にするなど、一種の翻案劇のような形を取るらしいとも聞いた。

毎年猿之助と決まっていた7月が、猿之助が倒れた後どうなるかがささやかれていたが、それに対する答えがこれなのだ。蜷川としては当然、野田への意識があるだろう。また近い将来、更に別な名前が登場することも充分考えられる。

近代劇の手法による新歌舞伎がすでに行き詰っていることは、猿之助がスーパー歌舞伎を始めた時点であきらかになっていた。あの方法で真山青果を越えることはもう不可能である。といって、擬古典的手法の限界も、三島歌舞伎でほぼ分かっている。方法は他に求めなければならなかったのだ。

こう考えてくると、この十年来、勘三郎がしてきたことの意味が、誰もが想像していた以上に大きな波紋を広げ始めたことが、改めて見えてくる。

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