随談第11回 上村以和於野球噺(その3)

先日古田が2千本安打を達成したとき、二塁ベース上で届けられた記念ボールにサインをし、外野席に放り込むということがあった。大方は好評だったと思うが、張本勲氏がこれに対してクレームをつけた。格好よすぎるというのだ。自分が選手として同じグラウンドにいたら妬ましく思ったに違いない、という。ファンにサービスするのなら、希望者を募って抽選で決めるべきだ、というのが「張本理論」である。

こういうのは、どちらが正しいかという問題ではない。正しい正しくないというなら、どちらも正しいのだ。私はあのときの古田を見ていて、好もしいと思ったくちだが、なぜそう思ったかといえば、結局、古田らしいな、と思ったことが決め手になっている。あれは古田に似合った行為だった。ネットのオークションなんかに出さないでほしいですね、というコメントの笑わせ方も古田らしい。だから好もしいと映ったので、ああいうやり方やああいうコメントの仕方が似合わない者が同じことをやったとしたら、キザったらしいとか、ウソくさいと映ったに違いない。

その一方、張本ほどの名声に包まれた人でも、古田の行為を見て俺なら妬ましいと思うというのも、また面白い。彼は彼で、自分に似合った解釈をし、自分に似合った批判をしたわけだ。そもそも、張本と古田が同じような感性の持ち主だったとしたら、その方が気味が悪い。

古田は去年のストライキに至る騒動の際に、選手会長として取った一連の行動で一躍、野球ファンだけに留まらない支持を受けたが、あの場合での、昼は時間ぎりぎりまで交渉し、その足でナイターの球場に駆けつけるという行動が水際立って見えたのも、「私流」に解釈すれば、古田によく似合っていたからだ。交渉の場から球場へ駆けつけるときのスーツ姿が実によく似合っていた。格好よかった。あれが、たとえば清原や、現役時代の張本や、いや長嶋だって、あの格好よさは到底出せないだろう。つまりあのスーツの似合い方ひとつを見ても、古田は、日本プロ野球界にあってエイリアンなのである。

誤解のないように言っておくが、私はいわゆる「知的な」選手を、そうでないタイプの選手よりいいとは必ずしも考えない。選手としてはなるほど「知性派」かもしれないが、それは現役選手としての間のことであって、選手をやめたらただの人だった、という程度の知性派なら、いくらもいるし、そんな知性派はすこしも面白くない。古田のユニークさは、そうした並みの知性派とは一線を画したところにある。ついでに言えば、私は去年の騒動の際の選手会の言動に必ずしも全面的に賛成してはいるわけではない。

昔、東急フライアーズのエースで白木儀一郎というピッチャーがいた。この人はたとえば打者を投ゴロに打ち取ったとき、取ったボールをキャッチャーに向けて剛速球で投げ(三塁ランナーが本塁突入するわけでもないのに)、キャッチャーから一塁に投げてアウトにするという人を食ったことをやった。現役を引退して、某有名政党から参議院に出てかなり長く議員をつとめた。しかし政治家として、水際立った働きをしたという話はついぞきいたことがない。

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