随談第15回 俳優偶論(その1・片岡愛之助)

(新しいコラムを始めることにした。題して「俳優偶論」。ミニ俳優論の趣である。随時、不定期に書いていきたい。)

片岡愛之助に会う機会があった。6月の明治座の『五瓣の椿』に出演するので、他紙の記者氏と一緒に出演の弁を聞いたのだが、大勢集まってのいわゆる記者会見と少し趣きが異なり、質問側が二人だけだったためもあってか、オフレコの話なども問わず語りに出るなど、30分余りという会見時間の割りには内実のある、なかなか興味深いひとときであった。

印象を一言で言うと、(少し古いが)オヌシヤルナ、という感じである。

端正で温厚な、気さくな中にもどう転んでも行儀悪くならない、身についたジェントルネスは、いかにも松島屋の人らしいが、その中に時折、不羈とすら言ってよいものを感じさせて、ホオ、と内心舌を巻かせる。怜悧というと、冷たい感じがして本来いい意味で使うべき言葉ではないが、しかしその言葉が持っている頭脳の明晰さと、意志的なたたずまいは、先に言った端正なジェントルネスという衣で包むと、なかなか魅力的である。想像していたよりも、大人、を感じさせた。もちろんそれは、若々しくないという意味ではぜんぜんない。

会見の主たる話題は、当然、『五瓣の椿』出演にあたってにあるわけだから、たとえば共演の女優菊川怜に話が及ぶと、初舞台で座長芝居という、歌舞伎でならありえない事態の中で彼女がいかに対処しているか、如才のない表現をするのはこういう場である以上当然だが、女優菊川怜というものを感じる、という言葉が愛之助を通して語られると、通り一遍の外交辞令ではなく、見るべきものを見ながらの言であることを察知させるのだ。

役者である以上どんな役でもやります、という。誰でも言う言葉には違いなくとも、この人の場合、その奥に強い意思と、自負と、その上にある見通しを持って言っているのだということがわかる。プロフェッショナルとしての自覚は、歌舞伎の役者なら持っていない人はないだろうが、それが単なる自負で終わらないところに、愛之助の愛之助たる存在の面白さがある。つまり、いま自分のいる位置をあやまりなく、的確に見ていながら、同時に、遠くを見ている人、なのである。

片岡秀太郎を父にもつ上方の役者として、当然という以上に、上方の歌舞伎を隆盛にするための努力も惜しまないが、関西でいま歌舞伎がどういう形でいるのか、それを見据える目は冷徹である。松竹座の看板を見ながら通りすぎるひとびとの目には、いま歌舞伎が来ている、であって、誰がなにをやっている、ではない。

現実を見る目と同時に先を見る目と、ふたつながらに持たないようなら頼りにならない。上方歌舞伎塾のこと、シアタードラマシティという与えられた場のこと、平成若手歌舞伎のこと。それらを語る愛之助には、智者の勇がある。どういう叡智をこれから見せるか。

歌舞伎俳優が歌舞伎の外に出るとき、私は最低次のことを求めたい。歌舞伎役者って凄いんだ、と思わせるか、何かを歌舞伎に持ち帰るか、せめてどちらかをしてもらいたいのだ。『五瓣の椿』で愛之助はなにをしてくれるだろう。

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