随談第16回 上村以和於野球噺(その5)

野球噺の一回目だったかに、メジャーから帰ってきた興味のある選手というので、小宮山と吉井のことをちらっと書いたが、その吉井がきのうの対巨人戦で素敵なピッチングをしてくれたので、いまいい気分である。思えばあれを書いたとき、吉井はまだ二軍にいたのだ。今年になってから、年俸五百万円でテスト入団したというのだから、むかしの栄華などを考えていたら誰にもできることではない。

近藤唯之氏の『背番号の消えた人生』というのをかつて愛読していた。第一線で鳴らしたプロ選手たちのその後の人生を追った記事だが、近藤氏独特の泣かせのテクニックは承知の上で、それでもなおかつ唸るほど面白かった。中でもいまなお忘れがたいのは、かつて(まだ弱かった頃の)広島カープで四番を打っていた興津選手の記事である。

現役時代、高円寺に豪邸を建てて住んでいたその家から、引退後、興津は水道工事の見習いから始めて、やがて工事屋さんになって注文先を廻るようになった。その家から、というところが面白いが、ある日、穴を掘っているときに、水道管にシャベルをぶつけてしまって勢いよく水がふきだしてきた。どうやっても水はとまらず、ようやく修理が終わったときは全身びっしょりなどというものではなかった。さすがに気の毒に思ったかして、その家の奥さんがご主人の下着を出してきて、よろしければこれをお使いくださいと言ってくれたというのである。

まあそれだけの話なのだが、いま記憶を頼りにこうして書いている内に、こういう話を集めたら『徒然草』の現代版みたいなものができはしまいか、という気になってきた。現役時代のまま豪邸に住んで水道工事に出かけるというのもいいし、気の毒に思った奥さんがご主人の着古したのを申し訳なさそうに差し出すというのも、なんともいい。水道管から噴出する水の勢いと格闘し、悪戦苦闘する元四番打者というのに至っては、さぞかしヘラクレスのように美しかったに違いない。まさにここには人生があり、人の世を生きる哀しみと喜びがある。

子供のころ球場に足を運んで、何故か顔をよく覚えている選手というのがある。有名だとか、プレイが格好良かったとかいうのとは別に、子供心にも印象に残り、いまもくっきりとその顔だけが思い出せるというのは、どういうことなのだろう。

東急セネタースでこの前書いた白木と並ぶエースだった黒尾とか、有名選手だからという意味ではなくて、中日の西沢の笑顔とか、まん丸な眼鏡がわすれがたい野口次郎とか、眼鏡はもうひとり、阪神の御園生とか、きれいな投球フォームだった清水秀雄とか。

ところでこの回は、小学生のころに親しんだ野球カルタというのを再現してみようと思ったのだが、何たることか、確実に思い出せるのが十枚ぐらいしかないことがわかった。五七五の最初の五文字が出てこないのが数枚、絵札だけなら覚えているのがざっと二十枚。

一枚だけ言うと、いろはの「い」が、「一打よく川上満塁ホームラン」というのである。「見送ればボールの球を櫟振り」などというのもあって、たまたま覚えていたカルタのお陰で阪神の櫟(いちい)などという選手がいたことが思い出せるのである。

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